sorachinoのブログ

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大岡信 『私の万葉集 一~二』

私の万葉集〈1〉 (講談社現代新書)

私の万葉集〈1〉 (講談社現代新書)

私の万葉集〈2〉 (講談社現代新書)

私の万葉集〈2〉 (講談社現代新書)


この『私の万葉集』というシリーズは、「折々のうた」でも有名な文学研究者である著者が、万葉集から秀歌を「つまみ食い」し、それらについて現代語訳と背景の説明を加え鑑賞と読解を行っていくというもの。一巻では万葉集の巻一から巻四まで、二巻では万葉集巻ニの補遺と巻五から巻七までを取り扱っています。


二巻のあとがきに、

これはまあ、万葉集に対する友情披瀝の本、あるいは相聞歌であると言ってもいいのですが、してみれば、ずいぶんたくさんの恋文を書かせる歌集ではないかとあらためて感心します。

と書かれているのですが、本書が著者による万葉集への相聞歌とは、なかなか素敵な言い回しだなぁ。


お気に入りの歌

一つ一つの歌に丁寧な解説や現代語訳が入っているので、読者である私も一つ一つじっくりと楽しめました。以下は、特に面白いな、いい歌だな、好きだなと思った歌についての感想です。

籠もよ

万葉集の一番最初の歌。雄略天皇が春の野で娘に求婚する歌として有名ですね。

籠(こ)もよ み籠もち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に菜摘ます児 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも


 籠よ、きれいな籠を持ち、竹べらよ、使い易い竹べらを持ち、この岡で菜をお摘みの娘さん。どこの家の娘さんか教えてください。名を聞かせて下さい。ソラミツ大和の国は、ことごとくこの私が治める国、すみずみまで、この私が統べておいでの国。私こそまず告げましょう、家をも名をも。

権力を嵩にきて傲慢といえば傲慢なのですが、この歌、実は結構好きです。男性的な堂々とした求婚の歌なので。春の野辺での若菜摘みというシチュエーションも2人の初々しさや若々しさ、この歌の爽やかさというものを象徴していていいなぁ。そして何よりもいいのが終り方の絶妙さだと思います。この後、乙女は求婚を受け入れたのか?乙女の名前はなんというのか?と想像力を掻き立てられるんですよね。まー、ちょっとこの感想はロマンティックラブ・イデオロギーが強すぎるかもしれませんが(笑)

ちなみに「我こそば 告らめ 家をも名をも」の解釈には二通りあるそうです。「私にこそは告げてください、家も名も」という風に解釈している他の書籍も読んだことがあります。学術的な分析はおいておくとして、文学的に見たときの個人的な好みからいえば「私こそまず告げましょう」の方の説を採りたいな。なのでこの大岡信さんの現代語訳は好きです。

乙女の名前を知るために、「教えて教えて」と押すだけではなく、自ら率先して名乗ることによって相手にプレッシャーをかけ名乗らせようとする戦略に出た、とみたい。それは同時に、「名」という自らの内実を先んじて晒すことによって、もっと自分を知ってほしい、自分の魅力気付いて欲しい、という恋する者の願望なのではないでしょうか。

否と言へど

持統天皇とみられる天皇と、それに仕える志斐嫗(しひのおみな)の二首。

否と言へど 強(し)ふる志斐のが 強(し)ひ語り このころ聞かずて 朕(あれ)恋ひにけり


 いやよ、聴きたくない、と言っているのに、聴け聴けと強いる志斐おばさんの強(し)い話、このごろ聞かないので、私はなんだか淋しいよ

否と言へど 語れ語れと 詔(の)らせこそ 志斐いは奏(まを)せ 強(し)ひ語りと言ふ
 
 いやですわ、そんなご命令は困ります、と申し上げているのに、陛下が話せ話せとお命じなので、志斐めは仕方なしにお話し申しているのですよ。それをまあ、私が強い話をするからですって?

大岡信さんの現代語訳、上手いなー。親しい仲だからこその軽口と、言葉遊びが表れていて、とても微笑ましい歌です。そして古代人のコミュニケーションの取り方の一端も窺えて興味深い。歌の内容からして即興性の高いもののように思うのですが、こういうのをさらっと作っちゃう人がいたとしたら凄い才能だな。

最近、権力者と芸能者の関係に凄く興味があり、古代日本の宮廷歌人や乞食者についての文献、また中世ヨーロッパの吟遊詩人についての文献などをちょうど読んでいるときだったので、この2首には余計心をひかれました。志斐嫗は宮廷に仕える語り部だったのかな?一体彼女の語る話とはどんなものだったのか?稗田阿礼女性説というのもあるそうですが(そしてそれを私はあまり信じてはいませんが)、物語る女性の存在というのは面白いです。男性の語り部とは何か違いがあるのでしょうか。

言問はぬ

葉集巻六より、市原王(いちはらのおおきみ)が一人っ子の寂しさを詠んだ歌。

言問はぬ 木すら妹(いも)と兄(せ)と ありというふを ただ独り子に あるが苦しさ


 物言わぬ木にさえ、妹も兄もあると聞くのに、私だけが独りっ子であるのは、とても辛い。

一人っ子の寂しさを歌うなんて面白い!

大岡信さんの「この感慨は市原王にとって切実であり、身にしみるものだった」という解説を読んで、私はこの歌が作られたときの作者の年齢が気になりました。自分も兄弟が欲しいという思いって、子供の頃と親が老いたり死んだ時が殊に強いのではと考えるからなのですが、そこのところ如何でしょうか、一人っ子の方。私自身は一人っ子ではないのですが、年が離れているため幼い頃は一緒に遊んだ経験は少ないです。友達が年の近い兄弟姉妹と遊んでいるのを見ていいなぁと羨ましく思ったこともあります。そして、親の老いや死に直面したら、きっと悲しみを共有出来る兄弟姉妹という存在は殊更ありがたいものなのではないかな、とも思う。

市原王が常日頃から一人っ子の寂しさを抱いていたとしても、一体どのような機会にこの思いを歌にしようと改めて思い立ったのだろうか。例えば作者の周囲にいる兄弟姉妹が仲良さそうにしている姿を見てなど、何かきっかけがあったのもしれませんね。

それにしても当時の兄弟姉妹の数ってどれくらいが平均だったのだろうか?


道の辺の

万葉集巻七より、勢いよく男性を突っぱねる女性の歌。詠み人知らず。

道の辺(へ)の 草深百合の 花笑みに 笑みしがからに 妻と言ふべしや


 道ばたの草の繁みに咲いている百合のように、この私が花笑みに頬笑んであなたを見たからといって、それであなたの妻だなんて、とんでもない。

「でれでれしないでよ。誰があんたみたいな男の妻になるもんですか」という砕けた訳も載っていました。

まず、「草深百合(くさぶかゆり)」や「花笑(はなえ)み」という美しい言葉に眼が留まりました。「花笑み」とは、咲く花のように美しく華やかな笑顔を言うそうですが、綺麗だなー。そんな素敵な笑顔を浮かべたいものです。とはいえ、この歌を贈られた男性から見れば、そんな花笑みというのは罪作りなものだったのでしょう。

よく見てみると歌意も本当に面白い歌だなー。作者の女性は、きっととても可愛らしくて魅力的な人だったのでしょうね。自分を花に喩えているあたりが女としての自負心やプライドをうかがわせています。

この歌のように歌われた当時の状況をつい想像したくなるものって凄く好きなのです。
この後、突っぱねられた相手の男性は何て答えたのか?「よく言うよ、結婚したいって言ったのはそっちだろ」などとやりこめるのか。それとも求婚を断られてしょんぼりしつつ帰って行ったのか。はたまた即座に上手い言い回しの口説きの歌を返せば、あらこの人結構やるじゃないの、と女性も男性を見直す気になったりして…等いろいろ妄想を掻き立てられました。

西の市に

万葉集巻七より、詠み人知らず

西の市に ただひとり出でて 目並べず 買いてし絹の 商(あき)じこりかも


 西の市にただ一人で出かけ、他人の目を並べて見ることをしないで買ってきた絹は、ああ商いの仕損じだったよ

本書では他人の意見も聞かず手に入れた女がくわせものだったと嘆く男の歌であるという可能性も紹介されていましたが、私も大岡さんの意見に同意で、素直に「物々交換の市で不良品をつかまされ、口惜しがっている人物」という解釈の方を取りたいです。

不良品をつかまされたやるせなさって現代でも充分に通用する感情ですよね。私も先日1つ600円の美味しいと評判のクレープ(私の中でクレープにこの値段は高いという認識がある)をワクワクしながら食べたのですが、それがとんでもなく不味くて金返せ!と言いたくなる経験をしました。なのでこの作者の気持ちがわかる、と読んでいて思ってしまった。

私はこの歌の作者と似たような理由から同じような感情を抱いたけれど、これを歌にしようという発想は生まれなかった。けれどこの作者は歌にするという手段を知っていて実際に作った。この人にとって歌を作ることと生活が結びついていたのだろうな。

そして、暮らしの中の些細な感情を歌という形で万葉集に残してあって、それが1000年以上も後の現代の読者に共感を呼んでいるという事実こそ面白いと思う。人を恋う歌だとか自然の美しさに驚嘆する歌だとか人生の無常を嘆く歌だとか、そういった数々の歌はよく見かけますが、この歌のような生活の中の経済的な面に関する歌は珍しい。

ところで、作者未詳とのことですが絹を手に入れているということは、この作者は結構身分が良かったのかな?


歴史を語る歌集

万葉集って歴史を語っている歌集なんだ、という印象をこの本を読んで強く持つようになりました。天智天皇が歌った大和三山の争いの歌、天武天皇額田王の蒲生野の歌、天智天皇が六人の皇子に兄弟盟約を誓わせたときに詠んだ歌、大津皇子と大伯皇女の歌、石川郎女と大津の皇子と草壁皇子の恋歌など、とても壬申の乱大化の改新などの歴史上の事件との連動を感じさせます。

もちろん、実際には後世の人間が有名な人物に仮託して創作した虚構の歌であったり、流行歌や民謡が有名な人物の歌ったものとして伝えられるようになった可能性もあるんのですが、こういう歌が万葉集に残っているために、それらの事件は人々の記憶の中でよりドラマチックに、そして歌を通してより事件の当事者の内面に迫ることが可能になっています。本当にその人の作品か否かを問わず、やはり万葉集で編集された有名な人物達の歌は、歴史に豊かなエピソードを提供してくれていますね。

この時代に詳しくなかった私ですが、万葉集に残されている彼らの歌の力強さや魅力を知るうちに、日本の古代史にも興味が出てきて、壬申の乱大化の改新の前後の詳しい人間関係を知りたくなりましたよ。思わず本文を参考に系図を描いたり、参考資料を集めてみたり。


その他

余談になりますが、序で万葉集を通読することの困難さに言及されていて、思わず深く頷きたくなりました。

四千五百首の長歌や短歌を通読するのは、案外大変なことだと思います。たかが文庫本二冊程度。しかし、~略~単に量の問題として論じるだけではすまない困難さがあるのです。

 これ、凄くわかります!私も学生時代に大量の和歌を通読しなくてはならないことに直面した経験があるのですが、そのときは数十首を読むだけで物凄く疲れて遅々として進みませんでした。続けざまに和歌や短歌を鑑賞するのって、とてもエネルギーを使うのものなんだ、としみじみ思いましたよ。研究者の方でも似たようなこと考えるんだなぁ、ちょっと親近感が…。


まとめ

とても面白いし、勉強になる本でした。上記の歌の他、柿本人麻呂の「石見の海 角の浦廻を 浦なしと~」で始まる長歌や、「天の海 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」などの魅力を再発見できたりと、本書はとても収穫の多かった本でした。『私の万葉集』シリーズ、やっぱり面白いな。