sorachinoのブログ

BLやラノベ、少女漫画、ロマンス小説、ミステリ小説、アニメ、ドラマ等のジャンルごった煮読書感想ブログ。お気に入り作品には★タグをつけています。ネタバレ多数、ご注意ください。コメント大歓迎です。不定期更新。

ポール・ドハティー 『神の家の災い』

神の家の災い (創元推理文庫)

神の家の災い (創元推理文庫)

摂政の宴に招かれたクランストン検死官は、四人もの人間を殺した〈緋色の部屋〉の謎を解くはめになる。一方、アセルスタン修道士の教会では、改修中に発見された人骨が治癒の奇跡を起こしたと評判になっていた。さらに、かつてアセルスタンが籍を置いた修道院で、神をも恐れぬ連続殺人が発生する…。


原題:Murder Most Holy
翻訳:古賀弥生


主人公:修道士アセルスタン。探偵役。
相棒:検死官クランストン。助手役。


中世イングランドが舞台のミステリー小説、シリーズ第3弾です。作者Paul Dohertyの母国イギリスでは1992年に出版され、この邦訳は2008年11月に創元推理文庫から発行されました。


イギリスでは4巻以降も続刊が発売されているようですが(英語版Wikipediaによると2017年に最新刊の17巻が出ているもよう)、残念ながら2019年5月現在、邦訳が出ているのはこの3巻までとなっています。

創元推理文庫さん、頼むから続きを出してください……! 正直なところ『神の家の災い』には本格推理物としてはいささか気になる部分があると言えなくもないですが、それを差し引いても魅力に溢れていて病みつきになるシリーズですよ、これは。幸い邦訳版の翻訳家の方も非常に有能で読みやすいですし、日本でももっと人気が出て良いシリーズなのではないかと思います。



1巻と2巻の感想記事でも書いたことの繰り返しとなりますが、私は本シリーズの偏執的なまでに延々と書かれる汚いロンドンの街の描写と、主人公である聖アーコンウォルド教会の司祭アセルスタンの人間臭いところが好きです。シリーズ第3弾となる本作でも、その二つは大いに描かれています。

特に、アセルスタンの血気盛んさや豊かな感情表現、そして周囲の人々との心温まる交流は、1~2巻にも増してしっかりと描かれているように思いました。


アセルスタンが激怒するシーンが面白かったです。改装中の聖アーコンウォルド教会で奇跡をもたらす聖遺物が見つかったという噂が立つや、続々と多くの詐欺師が集まってきて便乗商売をしようとするので、アセルスタンはぶちギレて教会の敷地から力づくで追い出すんですよ。

教会の目の前で偽の『神聖な杖』を売って巡礼にきた貧民からお金を巻き上げようとしている男に対しては、容赦なく、

五体満足のならず者が持つ松葉杖をつかみ、あたりに響きわたるような音で男の背中を殴った。
「神の名において命じる、失せろ!『これは神の家である。これは天の門だ』という聖書の一節を聞いたことがないのか?ここはチープサイドのみずぼらしい屋台じゃないんだぞ!」
男はよろめき、ベルトにさしたナイフに手をやった。アセルスタンは松葉杖を握ったまま、脅すように男に迫った。
「やってみろ、このくそったれ野郎め!」クランストン直伝の言葉を怒鳴った。「そのナイフを抜いたら、おまえのどたまを肩からたたき落としてやる!」怒った司祭は、見物人の小さなグループに指を向けた。
「あそこにいるのは律儀な人たちで、額に汗して小銭を稼いでいるんだ!」

凶器を取り出した男にも怯まないどころか怒鳴って追い出す修道士さん、強いw 

ちなみに免罪符を売る詐欺師に対しては、松葉杖で背後から突いて教会前の階段から落とすという手荒い武闘派っぷりも披露した上で、脅しつけます。

「わたしはこれから目をつむり」穏やかに言った。「天使祝詞を暗誦する。そして『いまも臨終のときも』のところまできたら、目をあける。そのときまだおまえがここにいたら、青あざができるまでぶちのめし、肥やしの山に投げ捨ててやる!」

まるで悪役のような啖呵の切り方ですが、使っている単語は聖職者っぽいのが笑えます。

さらに、まだ聖遺物と確定してもいないのに、勝手に浮足立って商売っ気満々な教会区民のワトキンとパイクにも忠告するアセルスタン。

「今度あんなことが起きるのをほうっておいたら、おまえたちは教会区民ではあるが、わたしの友達ではなくなるぞ!」

もちろん、これで懲りる教会区民たちではありません。実は、この後も、巡礼相手の商売をしようとしてアセルスタンを更に激怒させます。

でも、最後には教会区民たちも騒動を反省してアセルスタンに歩み寄ってきます。物語終盤の聖霊降臨節の日に、教会区民が全員朝のミサに集い、その後アセルスタンが一日中一人一人から告解を受けていましたが、それは司祭と教会区民の和解の証でもあったのでした。

ちなみに告解の場面では、アセルスタンは小さな子供達の些細な罪の可愛らしい告解を聞くのは大好きなんだそうですが、クリムという幼い子供が「六回も姦淫をやっちゃったんだよ」と告白してアセルスタンが仰天する一幕が面白いです。

悪い言葉を使った、淫らな想いを抱いた、などの区民たちの告白を聴きながら「自分の罪に似ていないこともない」と心密かにアセルスタンが自省するのも良いですね。本書は、こういう人情ドラマが面白いんですよねぇ。


ところで、多彩な教会区民の中には、一人だけ毛色の変わった人物がいます。それは美貌の未亡人ベネディクタ。あくせく仕事をしている様子もないので、亡くなった夫が財産を遺してくれて華美でなくとも充分暮らしていけてる女性なのでしょう。

教会区民の中では珍しく落ち着いた物腰の良識ある彼女に、アセルスタンは修道士らしからぬ仄かな恋心を抱いています…………いや、それまずくないかアセルスタン、あなた独身であるべき修道士でしょ(笑) 1~2巻では恋愛パートは無くてもいいのでは、などと思っていましたが、今回はベネディクタが告解に来るシーンに不覚にもグッときてしまいました。

亡き夫以外の男性に恋い焦がれていると告げるベネディクタ――もちろん、それはアセルスタンのことを暗に示しています。話の行方の危うさ、この緊張感! ロマンスも盛り上がってまいりました。



ただし、今回のミステリパートについてはいささか残念という感想を持ちました。私でさえ、読んでいるうちに真相の予測がなんとなくついてしまいましたので、謎のレベルを落としすぎた感が……。聖アーコンウォルド教会で発見され聖遺物かと騒がれた遺体の謎、クランストンに降りかかった緋色の部屋の謎、修道院で起きた連続殺人事件の謎、という3つの事件が絡み合って、アセルスタンが東奔西走するという構成は飽きさせませんが、一つ一つの謎が若干小粒です。


ところで、このシリーズには、なぜか「サイモン」という名前の脇役が複数出てきます。「あ、またサイモンが出てきた」「この脇役の名前もサイモンか」と読んでいる最中、凄ーく気になりました(笑)。何か作家の深遠な意図があるのか、単に名前を考えるのが面倒で使いまわしたのか、実際イギリスでは「サイモン」という名前を男児につける例がとんでもなく多かったのを反映しているだけなのか?……謎です。

シリーズ1巻では教会区民の瓦職人のサイモンと、毒薬も扱う薬種屋サイモン・フォアマンの2名が登場し、2巻ではエール酒場の主人サイモン・ド・ウィクスフォードと、教会区民の大工のサイモンの2名が登場します。薬種屋と大工はそれぞれ殺人事件の重要な手掛かりをアセルスタンに与えました。そしてこの3巻でも、また「サイモン」が出てくるんです……!今回はジョン・オブ・ゴーントの侍従サイモン・ド・ベラモンテとしてでした。本当にチョイ役なのにわざわざ名前を出しているということは、やっぱりわざと「サイモン」を出してるんじゃないかなー。

サイモンというのは何か深い意味を持った特別な名前なんだろうか?と思って人名の由来を調べてみたところ、「サイモン(Simon) 」は古代ユダヤ人名の「シメオン(Simeon)」がギリシャ語化した「シモン(Simon)」に通じる名前なんだそうで。シモンというのは十二使徒の一人として聖書にも出てくる名前です。確かに本書はキリスト教を背景にした作品ではありますが、欧米の人名は結構聖書由来のものが多いので「サイモン」が特別とも思えないんですよね。謎は深まるばかりです。



4巻以降の続刊でも「サイモン」が出てくるのか気になるし、アセルスタンとベネディクタの恋模様の行方も知りたいし、騒々しくも生き生きとした教会区民や汚らしいロンドンの描写もまた読みたいし、頼むから続きを出してください創元推理文庫さん……!!

近藤史恵 猿若町捕物帳 『巴之丞鹿の子』

巴之丞鹿の子―猿若町捕物帳 (光文社時代小説文庫)

巴之丞鹿の子―猿若町捕物帳 (光文社時代小説文庫)

江戸で若い娘だけを狙った連続殺人が起こった。南町奉行所同心の玉島千蔭は、殺された女が皆「巴之丞鹿の子」という人気歌舞伎役者の名がついた帯揚げをしていたことを不審に思う。そして、巴之丞の蔭に浮かぶ吉原の売れっ妓。調べが進むなか新たな被害者が――。はたして真犯人は!? 

助手役:八十吉
探偵役:玉島千蔭


江戸時代を舞台にした推理小説です。時代物だけどサクサク読めます。江戸情緒を存分に漂わせつつ、非常に読みやすい文章を書いてくれる作家さんでした。


この『 巴之丞鹿の子』はシリーズ第1巻です。これに続いて『ほおずき地獄』『にわか大根』『寒椿ゆれる』『土蛍』と、2019年3月現在、シリーズ第5弾まで出版されています。私は『ほおずき地獄』以外は読了済み。

いつも思うんですが、なぜこのシリーズは背表紙等に通し番号つけてないんでしょうかね……不便なのでつけてくれるとありがたいのになぁ。出版社さん、頼みますよ。二巻以降は千蔭の義母であるお駒の結婚・妊娠・出産の流れが出てきて作中の時間はしっかりと流れていることが明白なんですから、やはり刊行順に読む方が楽しいと思います。


本シリーズの探偵役であり実質的な主人公は南町同心で三十前後の青年ですが、彼に付き従う小者の八十吉という中年男の視点で物語は描かれています。この2人だけだと性格も生活もひたすら地味で面白みも色気もないのですが、吉原の花魁や人気者の歌舞伎役者を絡ませることで作品に華やかさを添えています。


江戸を舞台にした時代小説が数ある中で、本作は「猿若町捕物帳」と題するだけあってお芝居や役者に焦点を当てたシリーズにしているのが面白いですね。

猿若町」は、現在の東京都台東区浅草六丁目辺りに位置し、浅草寺に近い土地です。1842年(天保13年)、官許の芝居小屋である中村座市村座河原崎座の3座がこの地に集められ俳優たちが移り住んできたことから、芝居の町・歌舞伎の町として一時はかなり繁栄していたんだとか(残念ながら現在では猿若町という町名は消え、芝居小屋も移転したため一座も残っていません)。

物語の舞台が劇場街ってなんかロマンがあってワクワクしますね。猿若町はいわばブロードウェイのようなものだったのでしょう。お芝居好きの人にとっては堪らないエンタメスポットですよね。


さて、タイトルロールにもなっていて作中で絶大な人気を誇る歌舞伎役者として登場する水木巴之丞は、中村座で活躍する女形です。このキャラクターは、その美しさや妖しい魅力を放っているさまが繰り返し描写されています。

彼が舞台で身につけた鹿の子や半襟は、江戸の若い女性に大流行するんですよね。歌舞伎役者がファッションリーダーでもあったというのは当時の歴史的事実でもありますし、熱狂的なファンの行動は今も昔も変わらないんだなぁ、と面白いです。現代でも、ドラマやアニメで登場した小物をオタクが買い集めることってよく見かけますしね。

芝居の元ネタにしようとして事件に首をつっこんだ中村座付きの脚本家に、堅物の千蔭が激怒する場面があります。千蔭の言う通り、不謹慎ですし、面白半分に娯楽作に仕立て上げられたら被害者が浮かばれない、というのは正論です。ただ、テレビやラジオもない当時の江戸にあって、社会の異変や実際に起きた事件を脚色して舞台に乗せるというメディアとしての役割を歌舞伎が果たしたことも、当時の庶民に大ウケした理由だったんですよね。娯楽でありメディアであり、そんな歌舞伎を担う者としての矜持を巴之丞が作中ではっきりと示したことは、「猿若町」を冠した捕物帳としての芯がビシッと通った場面でした。

ちなみに、一筋縄ではいかない美貌の女形役者というキャラ造形は私好みであるはずなのに、なぜか不思議と私には刺さらないキャラなんですよ巴之丞は……。なんでだろう、我ながら謎(笑)。あまりに女形役者として「らしすぎるから」かも。でも、絶対この人、他の多くの読者の中には熱いファンがいそうなキャラクターだなと思います。

ちなみに、謎解き以外の見所の一つに同心の千蔭・遊女の梅が枝・女形の巴之丞の3者が織りなす微妙な三角関係がありますが、個人的には断然町娘のお袖とお侍さんのカップルの方が気になった恋愛描写でした。お袖の奇妙な思考回路には読んでいてぞわっとしつつなんだか妙な魅力を感じる女の子ですし、朴訥なお侍さんも良い味を出してると思います。まさかSM描写ぶっこんでくるとは思わなかったけども(笑)。


さて、最後に謎解きについてですが、千蔭が謎を追う捜査の過程はとても楽しめました。犯人の動機は、なかなか酷いです。胸糞悪い、の一言。いやお前そんなことで何人も人殺すなよ!自分勝手にもほどがあるよ!と読んでいて腹が立つくらい。被害者の女の子たちが不憫だわ……。千蔭がしっかり逮捕してくれて良かったです。


余談ですが、実は私、この小説を読むまで「猿楽町」と「猿若町」を混同しておりました(笑)。似てません?

大岡信 『私の万葉集 一~二』

私の万葉集〈1〉 (講談社現代新書)

私の万葉集〈1〉 (講談社現代新書)

私の万葉集〈2〉 (講談社現代新書)

私の万葉集〈2〉 (講談社現代新書)


この『私の万葉集』というシリーズは、「折々のうた」でも有名な文学研究者である著者が、万葉集から秀歌を「つまみ食い」し、それらについて現代語訳と背景の説明を加え鑑賞と読解を行っていくというもの。一巻では万葉集の巻一から巻四まで、二巻では万葉集巻ニの補遺と巻五から巻七までを取り扱っています。


二巻のあとがきに、

これはまあ、万葉集に対する友情披瀝の本、あるいは相聞歌であると言ってもいいのですが、してみれば、ずいぶんたくさんの恋文を書かせる歌集ではないかとあらためて感心します。

と書かれているのですが、本書が著者による万葉集への相聞歌とは、なかなか素敵な言い回しだなぁ。


お気に入りの歌

一つ一つの歌に丁寧な解説や現代語訳が入っているので、読者である私も一つ一つじっくりと楽しめました。以下は、特に面白いな、いい歌だな、好きだなと思った歌についての感想です。

籠もよ

万葉集の一番最初の歌。雄略天皇が春の野で娘に求婚する歌として有名ですね。

籠(こ)もよ み籠もち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に菜摘ます児 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも


 籠よ、きれいな籠を持ち、竹べらよ、使い易い竹べらを持ち、この岡で菜をお摘みの娘さん。どこの家の娘さんか教えてください。名を聞かせて下さい。ソラミツ大和の国は、ことごとくこの私が治める国、すみずみまで、この私が統べておいでの国。私こそまず告げましょう、家をも名をも。

権力を嵩にきて傲慢といえば傲慢なのですが、この歌、実は結構好きです。男性的な堂々とした求婚の歌なので。春の野辺での若菜摘みというシチュエーションも2人の初々しさや若々しさ、この歌の爽やかさというものを象徴していていいなぁ。そして何よりもいいのが終り方の絶妙さだと思います。この後、乙女は求婚を受け入れたのか?乙女の名前はなんというのか?と想像力を掻き立てられるんですよね。まー、ちょっとこの感想はロマンティックラブ・イデオロギーが強すぎるかもしれませんが(笑)

ちなみに「我こそば 告らめ 家をも名をも」の解釈には二通りあるそうです。「私にこそは告げてください、家も名も」という風に解釈している他の書籍も読んだことがあります。学術的な分析はおいておくとして、文学的に見たときの個人的な好みからいえば「私こそまず告げましょう」の方の説を採りたいな。なのでこの大岡信さんの現代語訳は好きです。

乙女の名前を知るために、「教えて教えて」と押すだけではなく、自ら率先して名乗ることによって相手にプレッシャーをかけ名乗らせようとする戦略に出た、とみたい。それは同時に、「名」という自らの内実を先んじて晒すことによって、もっと自分を知ってほしい、自分の魅力気付いて欲しい、という恋する者の願望なのではないでしょうか。

否と言へど

持統天皇とみられる天皇と、それに仕える志斐嫗(しひのおみな)の二首。

否と言へど 強(し)ふる志斐のが 強(し)ひ語り このころ聞かずて 朕(あれ)恋ひにけり


 いやよ、聴きたくない、と言っているのに、聴け聴けと強いる志斐おばさんの強(し)い話、このごろ聞かないので、私はなんだか淋しいよ

否と言へど 語れ語れと 詔(の)らせこそ 志斐いは奏(まを)せ 強(し)ひ語りと言ふ
 
 いやですわ、そんなご命令は困ります、と申し上げているのに、陛下が話せ話せとお命じなので、志斐めは仕方なしにお話し申しているのですよ。それをまあ、私が強い話をするからですって?

大岡信さんの現代語訳、上手いなー。親しい仲だからこその軽口と、言葉遊びが表れていて、とても微笑ましい歌です。そして古代人のコミュニケーションの取り方の一端も窺えて興味深い。歌の内容からして即興性の高いもののように思うのですが、こういうのをさらっと作っちゃう人がいたとしたら凄い才能だな。

最近、権力者と芸能者の関係に凄く興味があり、古代日本の宮廷歌人や乞食者についての文献、また中世ヨーロッパの吟遊詩人についての文献などをちょうど読んでいるときだったので、この2首には余計心をひかれました。志斐嫗は宮廷に仕える語り部だったのかな?一体彼女の語る話とはどんなものだったのか?稗田阿礼女性説というのもあるそうですが(そしてそれを私はあまり信じてはいませんが)、物語る女性の存在というのは面白いです。男性の語り部とは何か違いがあるのでしょうか。

言問はぬ

葉集巻六より、市原王(いちはらのおおきみ)が一人っ子の寂しさを詠んだ歌。

言問はぬ 木すら妹(いも)と兄(せ)と ありというふを ただ独り子に あるが苦しさ


 物言わぬ木にさえ、妹も兄もあると聞くのに、私だけが独りっ子であるのは、とても辛い。

一人っ子の寂しさを歌うなんて面白い!

大岡信さんの「この感慨は市原王にとって切実であり、身にしみるものだった」という解説を読んで、私はこの歌が作られたときの作者の年齢が気になりました。自分も兄弟が欲しいという思いって、子供の頃と親が老いたり死んだ時が殊に強いのではと考えるからなのですが、そこのところ如何でしょうか、一人っ子の方。私自身は一人っ子ではないのですが、年が離れているため幼い頃は一緒に遊んだ経験は少ないです。友達が年の近い兄弟姉妹と遊んでいるのを見ていいなぁと羨ましく思ったこともあります。そして、親の老いや死に直面したら、きっと悲しみを共有出来る兄弟姉妹という存在は殊更ありがたいものなのではないかな、とも思う。

市原王が常日頃から一人っ子の寂しさを抱いていたとしても、一体どのような機会にこの思いを歌にしようと改めて思い立ったのだろうか。例えば作者の周囲にいる兄弟姉妹が仲良さそうにしている姿を見てなど、何かきっかけがあったのもしれませんね。

それにしても当時の兄弟姉妹の数ってどれくらいが平均だったのだろうか?


道の辺の

万葉集巻七より、勢いよく男性を突っぱねる女性の歌。詠み人知らず。

道の辺(へ)の 草深百合の 花笑みに 笑みしがからに 妻と言ふべしや


 道ばたの草の繁みに咲いている百合のように、この私が花笑みに頬笑んであなたを見たからといって、それであなたの妻だなんて、とんでもない。

「でれでれしないでよ。誰があんたみたいな男の妻になるもんですか」という砕けた訳も載っていました。

まず、「草深百合(くさぶかゆり)」や「花笑(はなえ)み」という美しい言葉に眼が留まりました。「花笑み」とは、咲く花のように美しく華やかな笑顔を言うそうですが、綺麗だなー。そんな素敵な笑顔を浮かべたいものです。とはいえ、この歌を贈られた男性から見れば、そんな花笑みというのは罪作りなものだったのでしょう。

よく見てみると歌意も本当に面白い歌だなー。作者の女性は、きっととても可愛らしくて魅力的な人だったのでしょうね。自分を花に喩えているあたりが女としての自負心やプライドをうかがわせています。

この歌のように歌われた当時の状況をつい想像したくなるものって凄く好きなのです。
この後、突っぱねられた相手の男性は何て答えたのか?「よく言うよ、結婚したいって言ったのはそっちだろ」などとやりこめるのか。それとも求婚を断られてしょんぼりしつつ帰って行ったのか。はたまた即座に上手い言い回しの口説きの歌を返せば、あらこの人結構やるじゃないの、と女性も男性を見直す気になったりして…等いろいろ妄想を掻き立てられました。

西の市に

万葉集巻七より、詠み人知らず

西の市に ただひとり出でて 目並べず 買いてし絹の 商(あき)じこりかも


 西の市にただ一人で出かけ、他人の目を並べて見ることをしないで買ってきた絹は、ああ商いの仕損じだったよ

本書では他人の意見も聞かず手に入れた女がくわせものだったと嘆く男の歌であるという可能性も紹介されていましたが、私も大岡さんの意見に同意で、素直に「物々交換の市で不良品をつかまされ、口惜しがっている人物」という解釈の方を取りたいです。

不良品をつかまされたやるせなさって現代でも充分に通用する感情ですよね。私も先日1つ600円の美味しいと評判のクレープ(私の中でクレープにこの値段は高いという認識がある)をワクワクしながら食べたのですが、それがとんでもなく不味くて金返せ!と言いたくなる経験をしました。なのでこの作者の気持ちがわかる、と読んでいて思ってしまった。

私はこの歌の作者と似たような理由から同じような感情を抱いたけれど、これを歌にしようという発想は生まれなかった。けれどこの作者は歌にするという手段を知っていて実際に作った。この人にとって歌を作ることと生活が結びついていたのだろうな。

そして、暮らしの中の些細な感情を歌という形で万葉集に残してあって、それが1000年以上も後の現代の読者に共感を呼んでいるという事実こそ面白いと思う。人を恋う歌だとか自然の美しさに驚嘆する歌だとか人生の無常を嘆く歌だとか、そういった数々の歌はよく見かけますが、この歌のような生活の中の経済的な面に関する歌は珍しい。

ところで、作者未詳とのことですが絹を手に入れているということは、この作者は結構身分が良かったのかな?


歴史を語る歌集

万葉集って歴史を語っている歌集なんだ、という印象をこの本を読んで強く持つようになりました。天智天皇が歌った大和三山の争いの歌、天武天皇額田王の蒲生野の歌、天智天皇が六人の皇子に兄弟盟約を誓わせたときに詠んだ歌、大津皇子と大伯皇女の歌、石川郎女と大津の皇子と草壁皇子の恋歌など、とても壬申の乱大化の改新などの歴史上の事件との連動を感じさせます。

もちろん、実際には後世の人間が有名な人物に仮託して創作した虚構の歌であったり、流行歌や民謡が有名な人物の歌ったものとして伝えられるようになった可能性もあるんのですが、こういう歌が万葉集に残っているために、それらの事件は人々の記憶の中でよりドラマチックに、そして歌を通してより事件の当事者の内面に迫ることが可能になっています。本当にその人の作品か否かを問わず、やはり万葉集で編集された有名な人物達の歌は、歴史に豊かなエピソードを提供してくれていますね。

この時代に詳しくなかった私ですが、万葉集に残されている彼らの歌の力強さや魅力を知るうちに、日本の古代史にも興味が出てきて、壬申の乱大化の改新の前後の詳しい人間関係を知りたくなりましたよ。思わず本文を参考に系図を描いたり、参考資料を集めてみたり。


その他

余談になりますが、序で万葉集を通読することの困難さに言及されていて、思わず深く頷きたくなりました。

四千五百首の長歌や短歌を通読するのは、案外大変なことだと思います。たかが文庫本二冊程度。しかし、~略~単に量の問題として論じるだけではすまない困難さがあるのです。

 これ、凄くわかります!私も学生時代に大量の和歌を通読しなくてはならないことに直面した経験があるのですが、そのときは数十首を読むだけで物凄く疲れて遅々として進みませんでした。続けざまに和歌や短歌を鑑賞するのって、とてもエネルギーを使うのものなんだ、としみじみ思いましたよ。研究者の方でも似たようなこと考えるんだなぁ、ちょっと親近感が…。


まとめ

とても面白いし、勉強になる本でした。上記の歌の他、柿本人麻呂の「石見の海 角の浦廻を 浦なしと~」で始まる長歌や、「天の海 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」などの魅力を再発見できたりと、本書はとても収穫の多かった本でした。『私の万葉集』シリーズ、やっぱり面白いな。

服部まゆみ 『一八八八 切り裂きジャック』


この小説は1888年にロンドンで実際に起こった切り裂きジャック事件を題材に物語が進んでいくミステリ小説です。切り裂きジャック事件について興味があったので読んでみました。

いや~面白かった!!


あらすじ

 大正十二年、還暦を迎えた作家の柏木老人の回想から物語は始まる。


 35年前の1888年、当時25歳だった日本人男性の柏木薫(かしわぎかおる)は、文部省派遣の国費留学生として、ベルリンに渡り解剖学を専攻していた。しかし彼は、親友の鷹原惟光(たかはらこれみつ)から聞いたエレファント・マンの話に心惹かれ、留学先のベルリンから海を渡りロンドンへとやってきた。ロンドンに滞在していた鷹原の下宿に部屋を借り、エレファント・マンことジョーゼフ・ケアリー・メリックに会いにイースト・エンドにある王立ロンドン病院を訪ねる柏木。


その頃、イーストエンドのホワイトチャペル地区では連続娼婦殺人事件が発生していた。日本の警視庁からスコット・ランドヤードに派遣されている鷹原は事件の調査を始め、一方ロンドン病院に落ち着きジョーゼフ・メリックの主治医であるトリーヴス医師に師事することになった柏木も事件に巻き込まれていくのだが…!?というお話。


ヴィクトリア朝と道徳

本書は、切り裂きジャック事件とエレファント・マンという二つの要素を真っ向からぶつけた作品です。この意味を、最初はちょうどどちらもヴィクトリア朝の出来事及び人物であり、ロンドンのイーストエンドということで、時代的にも地理的にも重なっているからなのかなと単純に考えていました。
 
けれど、やはりそれだけではないんだろうな、というのは読み進めていく内に感じていきました。

切り裂きジャック事件とエレファント・マンの共通点は、この両者を巡る周囲の人々の道徳が剥がれ落ちてしまったことにあるように思います。これは、ヴィクトリア朝という時代をとてもよく表している出来事なのではないかと思います。

ヴィクトリア朝は、“勤勉”や“性の隠微”、“良識”など厳格な道徳が規範として機能し、中流階級は理想的な紳士や淑女というものを目指していた時代だといわれています。

けれども同時に、その厳格な道徳観は抑圧的であり偽善的でもあったということもよく指摘されているんだとか。この“偽善的”という矛盾が、切り裂きジャック事件への周囲の反応とエレファントマンへの周囲の反応に共通しているものなのかもしれません。

「[略]芝居や物語の中の殺人鬼よりももっと恐ろしい怪物が、現実に跋扈している……このロンドンで……自分と同じ空気を吸い、ひょっとしたら道ですれ違ったかもしれない……客席から突然舞台に上げられたような恐れと困惑、それにぞくぞくするような興奮を味わっているんだ。退屈な日常生活に突然照明が当てられ、音楽がなる。役者が客席に下りたのか、自分が舞台に上がったのか……とにかく、このロンドンでとんでもないことが起き、そして自分はここに住んでいる……新聞を見る度に、雑誌を見る度に、その興奮を味わうんだ[略]」

このように『一八八八 切り裂きジャック』では、センセーショナルで猟奇的な事件に対する好奇心と興奮からこぞって新聞を買い大騒ぎする市民の姿が描かれています。彼らは、売春婦という自分達より明らかに下の階層の女性たちが被害者となっていることによって、立派な市民の自分は襲われることはないと安全圏から劇場型の元祖とまで言われるこの事件を“楽しむ”ことができました。

同時に、ジョゼフ・メリックに先を争って見舞い、施しを与えようとする上流階級の人々の姿も描かれています。主人公の柏木薫も、自分がエレファントマンに会いにロンドンへ来たのはエレファントマンの畸形を目にすることによって心の平安を得ようとするためだったのではないか、と自らの態度を批判的に内省しています。

だからこそ、この二つを中心にヴィクトリア朝の風俗を描き当時の実在の人物を大量に登場させた本書は、その構成の絶妙さに感心しましたし、とても面白かったです。


ヴィクトリア朝の実在の登場人物たち

この小説は、ヴィクトリア朝の雰囲気と風俗を存分に味わえる作品となっています。何しろ主人公の語り手が日本からの留学生なので、外部からの旅行者の視点で当時のイギリス社会を描写しており、読者も彼が見聞きすることをまるで一緒に体験しているかのような気分になれるのです。プチ旅行感覚。しかもタイムスリップというおまけつき。

というわけで、きっと事前にある程度の知識(切り裂きジャック事件やエレファント・マン、イギリス文学、ヴィクトリア朝の文化人についてなど)があったほうが面白く読めるだろうなぁと思います。

人によっては切り裂きジャック事件やイギリス文化に何の興味も持たずに読むと、登場人物の多さと、長さに疲れてしまうかも。というか、数年前の私がそうでした。もともと日本史畑の人間なのでイギリス文化史にはさっぱり無知で、次々と登場する見知らぬ横文字の名前に対応しきれず、そのときは途中で脱落しています。

再度この本に挑戦した今回、長かったけれど一気に読めたのは、事前に切り裂きジャック事件に関する本を数冊読んでいたせいか、登場人物達に親しみを持てたおかげだと思います。

例えば、バーネット*1を犯人と考えるブルース・ペイリーの『切り裂きジャックの真相』を読んだ後だったので、ジョゼフ・バーネットが登場するシーンはちょっと嬉しかった。

こういう歴史上の実在の人物(とはいえバーネットは無名の人物に近いですが)が、きちんと血の通った人間として文章の中で動いたり喋ったりしているのは、研究書や学術論文には無い楽しみであって、小説を読むことの特権ですよね。


あと、アバリーン警部*2とジョージ・ゴドリー巡査部長が登場していて、ついつい映画『フロム・ヘル*3ジョニー・デップ演じるアバーライン警部やゴッドリー巡査部長のヴィジュアルで想像してしまったり。 


その他、例えばヴァージニア・ウルフ北里柴三郎森林太郎谷崎潤一郎西園寺公望、石川小五郎(河瀬真孝または河瀬安四郎)、ベルリン大学のライヘルト教授、ヘンリー・ライダー・ハガード*4、フィリップ・ツー・オイレンブルク*5、シメオン・ソロモン*6をはじめとして文化史や政治史、科学史における有名人物が数多く登場しています。


まぁヴァージニア・ウルフくらいは流石に知っていましたが、マダム・ブラヴァッキーは知らなかったので彼女が登場する場面では、元ネタがわかっていれば絶対にもっと登場を楽しめただろうなと、もどかしい思いもしました。あと、バーナード・ショーの周辺の人物としてウィリアム・モリスがちらっと出てきたときは、あれ、ウィリアム・モリスって聞いたことあるな、誰だっけ、そういえば大学のイギリス文化の授業中に習った壁紙やら書籍の装丁で有名な人じゃなかったっけ?とうろ覚えの知識を総動員して読んだり…。こんな風に、この作品を読んでるとついヴィクトリア朝への興味や関心が高まってしまいました。

名前の付いた登場人物は百名以上。一応、巡査から子供に至るまで、実在の人物です。その中に七人ほど、架空の人物を織り込みました。また、日時とは結びつかない日時のはっきりとした史実で、二つほど嘘も入れました。マニアックな読者の方、お解かりになりますか?

と、あとがきに書かれていましたが、もちろんマニアックな読者ではないのでわからなかったです…。でもこういうの全部わかったらとても楽しいだろうなぁ。七人の架空の人物は誰なんでしょうね?とりあえず柏木薫と鷹原惟光で二人かな?


キャラクターと文学ネタ

本書は、切り裂きジャック事件の犯人を推理するミステリ的な楽しみだけではなく、作中に散りばめられている文学ネタを楽しむという楽しみ方もあると思います。

例えば、探偵役を務める鷹原というキャラクター。彼のモデルは、明らかに源氏物語光源氏です。そのせいか、どれだけスーパーマンなんですかとツッコミを入れたくなるくらい凄まじい出来すぎ人間でした。男も見とれるほどの類まれな美青年で、伯爵家の長男で、社交性が高く身分を問わず持て囃されて皇太子にも王子にも好かれる性質で、広い知識と鋭い知性を持ち、度胸もあって、体も頑丈で、上品で、でも暗い出生の秘密を抱えていて……。しかも老人になってからも

月を背に、老いても美しい顔が笑っていた。

とまで描写されているんですから、もはやここまでくると天晴れ!な感じもしないでもない。超人ぶりにうんざりする読者もいるのではとは思いますが、私は光源氏をモデルにしているんならこれほど非現実的なまでの超人ぶりもむべなるかなと、つい納得してしまいました。ちなみに小説論について柏木と鷹原が意見を交わす場面で源氏物語について触れていたり、キャラクターの名前も「惟光」「柏木」「薫」など源氏物語から取ったと見える名前をつけていたりと、源氏物語ネタは幾つか見受けられます。

それにしても鷹原って髭あるんだ!びっくり!あまりにも「美青年」と強調されるので、なんとなくつるりとした顔なのかと思ってましたよ。髭面の美青年かぁ、いや、髭面というとなんか野趣に富みすぎてるイメージですが、彼の場合はチョビ髭の美男子なんですよね。ふむ。


主人公であり語り手である柏木も文学と縁が深いキャラクターです。彼は、結構うじうじした性格で、いろいろと劣等感や自分は何をすべきなのかと進路に関する悩みを抱えていると描かれている。本書はミステリ小説であると同時に彼の成長物語としての側面もあるようで、イギリスで小説というものに出逢い、惹かれ、やがて自らも執筆をはじめたことで、彼は自分の進むべき道を見つけ出します。以下は柏木の台詞です。

「[略]こんなに心踊り、わくわくしたことはないよ。物語というのは素晴らしい。バートンの言葉通り、物語の世界でならすべてが可能だ。自由に心を遊ばせることが出来る。そして、もしも可能なら、僕もそういう物語を作り上げてみたい。僕も人間を……人間の精神を、心を、自由に遊ばせたいんだ。地位や名誉、身分や体面に囚われることなく、すべての僕の本を読んだ人々が、王様から乞食へと、熱砂の砂漠から氷点下の凍てつく世界へと、どんな風にでも遊べる世界を作りたいんだ。[略]」

このあたりの柏木の心境を読んでいたら感慨深かったです。というのも本書が舞台としている1888年当時、まだ日本では言文一致体を模索しはじめていた時期であり、西欧的な小説という文芸の黎明期にあったという状況がよくわかる描写だったので(実際、二葉亭四迷の『浮雲』は1887年つまり明治20年から1889年にかけて発表されたものだそうですし)。現在私の部屋にはたくさんの小説がありますが、あの時代柏木のように近代小説という文芸の魅力に取り付かれた文学者達の努力によって、現在の私は小説という娯楽を得ているんだろうなぁなどと面白く読みました。


そして柏木の語る面白い物語や小説の中の世界が読者を惹きつけて離さない力というものは凄いなと、私も本書を読んでいて感じましたよ。まるで見てきたかのようにヴィクトリア朝の闇と光が交差するロンドンの雰囲気を伝えていて、もちろんどこまでその描写は史学的にリアリティがあるのかは私には判断がつきませんが、それでも本書が充分に‘遊べる’魅力的で厚い物語世界であったことは確かです。


ところで国費留学生というエリートなのでお金の心配はする必要もなく、反面国費留学生だというのに熱心に大学に通って医学の勉強をしなくてもよく、さらに下宿には大家がいるので家事をする必要もなく、刺激と先進技術と文化に満ちた異国で、好きな小説を一日中読んでいてもよいだなんて、随分恵まれたいい生活なのでは。

まぁ、それだけ小説というものには人を耽溺させる魔力があるということを表現しているのでしょう。小説を時間も忘れて読み耽り、物語の世界にどっぷりと浸かることの快楽というのは、本好きの一人としてわかる気がするけれども。


それと文学ネタとしては、大英博物館図書館を訪れる文部官僚の田中稲城の登場も面白かったです。どうやらこの登場人物は、のちに日本の帝国図書館の初代館長になった人物がモデルらしい。また、『アラビアン・ナイト』と聞いて顔を赤らめる良識ある中流階級の奥方とかの小ネタも面白い(当時『アラビアン・ナイト』は今のように子供向けのものではなく破廉恥なものという認識があった)。その他、ヴァージニア・ウルフ谷崎潤一郎森鴎外、ヘンリー・ライダー・ハガード、リチャード・バートンの登場など、作家さんの文学への愛が感じられます。


ミステリとして  以下ネタバレがあります。未読の方はご注意を!

犯人の正体は意外で面白かったです。エレファント・マンが犯人だという珍説はどこかで読んだことがあるような記憶がありますが、本書における切り裂きジャックの犯人が、他の書籍で犯人として名前が挙がっているのは見たことは無いな。著者の一からの想像なのか、それとも他の誰かが彼を犯人とする説を立てていたのだろうか。どちらにしても意表を突かれました。

柏木がジェームズ・ケネス・スティーヴンを疑う一方で、私は王室関係者がかなり登場していることからいわゆる王室関与説に沿った物語を紡いでいくのかと途中までは思っていたのですが、いやはや気持ちよく騙されましたよ。なるほど、そっちか!という感じで。ちなみに、史実との絡みで犯人が逮捕されない理由を描いていたのも良かったと思います。

ただ、鷹原の謎解きの説得力については、う~んどうだろう?という気は若干します。また、本当にあんな程度の脅しでその後の何十年という人生、犯罪を起こさずにあの犯人は生きていけたのかという疑問も。保身と理性で殺人衝動を抑えられるなら、最初から連続殺人なんて犯さないのでは? 

それにしても、連続殺人犯の濡れ衣をかけられて、一週間も隠し部屋に監禁されて(食事と排泄は大丈夫だったのか?)、同性愛関係の相手との諍いに端を発して隠していた女装癖を家族に暴露され、その挙句病院に収容されただなんて、スティーヴンが気の毒すぎる。だって殺人犯と目された人物が、明確な証拠が無く逮捕出来ないため、その代わりに「紅や白粉姿で人目に晒される」という罰によって身を破滅させられるんですよ?なんてえげつない私刑なのよ。ドルイットと柏木のばかー!

舞台にしている時代が時代なのでそれだけ異性装愛好者は迫害されていたということを表現しているのかもしれないけれど、‘成人男性が女装愛好を周囲に暴露されること’と‘連続殺人を犯して逮捕されること’を代替可能な行為として物語が展開するのって、なんか釈然としないというか危うく感じるというか。本書に限らず異性装や同性愛を作家が描くとき、やたら破滅的なもの・退廃的なものとして物語世界で扱っていると、私はもうちょっと慎重に描くかポジティブな要素と絡めて扱ってもいいのでは?と読んでいてヒヤヒヤしてしまうんですが。その作品が好きだと尚更。

まとめ

ヴィクトリア朝への興味と関心を掻き立てられた一書としてとても面白かったです。最初は図書館でハードカバーを借りて読んだのですが、つい手元に欲しくなって文庫版も買ってしまいました。

*1:切り裂きジャック事件の最後の被害者といわれているメアリ・ジェイン・ケリーの交際男性

*2:ハードカバー版ではアバリーン警部補と書いてあったけれど、その後手に入れた文庫版ではアバーライン警部と変更されていました。文庫版で解説を書いているリッパロロジスト仁賀克雄さんの本でもアバーラインでしたし、『フロム・ヘル』でもアバーラインとなっていたので、「Abberline」の日本語訳は「アバーライン」で定着していると考えていいのかもしれません。

*3:切り裂きジャック事件を題材にした映画。

*4:イギリスのファンタジー作家、冒険小説家で、『ソロモン王の洞窟』やその続編群(アラン・クォーターメインもの)を著した。

*5:ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の側近。

*6:イースト・エンド生まれのラファエル前派の画家。

ピーター・キャメロン 『最終目的地』

面白かったです!
人生の次のステップへ進むための希望を抱ける文芸作品でした。

あらすじ

1995年9月。カンザスの大学院で博士課程に在籍しているオマー・ラザキは、三年前に亡くなったウルグアイの小説家ユルス・グントの研究をしていた。大学から研究奨励金を得てユルスの伝記を執筆するには、遺族の公認を得なければならない。オマーは、ユルスの遺族たちが住むウルグアイの田舎の豊かな緑に囲まれた邸宅へ赴いた。

そこに暮らしていたのは、ユルス・グントの未亡人キャロライン、ユルスの愛人アーデン、ユルスとアーデンの幼い娘ポーシャ、ユルスの兄アダム、アダムの恋人ピートである。彼らは豊かで静かで平穏な、そしてどこか倦んだように停滞した時間を過ごしていた。

遺言執行者たちの公認を求めて遠路はるばるオマーがやってきたとこで、じわりと時間は動き出す。新たな恋に落ちる者、あえて屋敷を離れていく者―――。そしてオマー自身の人生もこの南米訪問で岐路に立つことに。それぞれの人生の最終目的地とは?


何気ない会話文

会話文が特徴的な小説だと思います。

まず、分量が多い。もちろん風景描写やみっしりとした内省描写もありますが、劇的な事件が起きる訳でもなく、主要登場人物同士のお喋りが主体となって物語は進んでいきます。その会話の多さから、読み終えたとき上質な会話劇の舞台を見終えたような心地がしました。

会話の内容もさりげなく魅力的です。何気ない言い回し、さらりと出てくる言葉、その端々になんとも言えないお洒落感というかセンスの良さを感じます。軽妙で、上品で、繊細で、どこか知的な感じ。ちなみに私のお気に入りの会話文はこちら(↓)。老紳士アダムが、若い恋人ピートにタイを結んでもらった時に言葉を交わす場面です。

「蝶ネクタイを結んでくれてありがとう。このタイをするとハンサムに見える。昔からのお気に入りでね。一九五五年にベネチアで買ったのだよ。しあわせなときは、美しいものを買うのが大事だ。このタイを見ると」―――アダムは襟元の蝶ネクタイに触れた―――「わしにもしあわせな時代があったことを思い出す」
「どうしてしあわせだったんですか」
「忘れた。そんなこと知るもんか。しあわせだった事実を思い出すだけで十分だ。わしはたしかにしあわせだった。さもなければ、こんなに美しいタイを買うはずがない」

もう一つ、とても些細だけれど好きな会話があります。キャロラインという美しい中年女性が、外食をした後に、滞在している亡妹のアパートメントのエレベーターの中でたまたま一緒になった他の住人と交わした何気ないやりとりです。

キャロラインは、さっき通りがかったレストランの外のテーブルに席を取って、ひとりで夕食をとった。心も体も疲れ果てていたが、鋪道の小さなテーブルに座っていると、気持ちがよかった。通り過ぎる人たちが、彼女にほほえみかけた。食事にあわせてワインを二杯飲み、食後はコーヒーを頼んだ。静かな都会の通りの木の下で、街灯に照らされてただ座っているよろこびを、もっとゆっくり味わいたかったからだ。

夕食の後は犬の散歩に行って、その帰りにプログラムのようなものを持っている女性二名とアパートメントのエレベーターで一緒になります。

「どちらに行ってらしたの?」彼女はプログラムを目で示した。
「ああ、バレエです」
「いかがでした?」
「すてきでした」
エレベーターが停まった。もうひとりの女性がドアを押し開け、「おやすみなさい」と言った。
「おやすみなさい」キャロラインも言った。

気持ちの良い場所でゆったりと食事をとって、犬の世話をして、隣人とこんな何気ない言葉を交わす、これってなんか凄くいいと思いません?日常の中の幸福、というか。

本の表紙の折り返し部分に「この小説のなかの会話は、近年最高のものだ」という書評が引用されているのですが、やはりこの本の会話文に魅力を感じた人は多かったんだろうなと思います。


不思議な家族

ところで、さらりと描かれているけど、グント家の妻妾同居、そして祖父と孫ほどに歳の離れたゲイカップルって題材、よく考えるとレアですよね。特に妻妾なんてミステリ作家だったらドロドロの人間関係と陰惨な殺人事件を描きたくなるスキャンダラスなシチュエーションでしょう。

しかし作家ピーター・キャメロンの筆にかかると、登場人物はそこそこ仲良く平穏に暮らしています。そこが意外で面白い。

まず、妻妾同居のキャロラインとアーデンについて。キャロラインは、自身でも説明できない憎しみを抱えていると内心をアダムに吐露する場面があり、この現状に苦しみを感じていることがわかります。そんな彼女が、夫の愛人とその娘と一つ屋根の下に暮らすなんてよく同意したなと思いますが、アーデンの儚げで可憐な性質あってのものなのでしょうし、不思議とこの生々しくない優雅な物語世界の中ではそういうのもあるんだろうなと呑み込んでしまえました。ユルス亡き後キャロラインとアーデンは微妙な距離感とバランスの下で、互いにある程度の思いやりと敬意を持ってともに過ごしていたように見えます。そこには不思議な連帯と絆がありました。

一方アダムとピートについても、普通ならヨーロッパ系の裕福な老人とアジアの途上国出身で元セックスワーカーの若者のカップルというとなんだか経済格差と売買春の痛ましさを嗅ぎ取りたくなるものなのではないでしょうか。実際2人の出会いはそういうものに近かったのかもしれませんが、ウルグアイで暮らす彼らにはもはやそういう影はあまり感じません。アダムはピートを伴侶として大事にしており、周囲もピートを単なる愛人ではなくパートナーとして扱っています。忠実にアダムの世話をするピートも、お金のためや義務感だけでアダムと一緒にいるわけではなく、愛ゆえに‘離れたくない’と思っている。しかし自分でも認めていなかった‘ここを出ていきたい’という気持ちをとうとう秘めきれなくなっったとき、アダムが泣くピートを抱きしめて慰めるくだりには、年上らしいアダムの包容力と愛情深さが光っていました。

家族というのは計り知れないもの。ユルス・グントの遺族たちのように、傍からは珍奇で規格外に見えても、実は絆を育んでいるということはあるのでしょう。


さて、そんな中でたゆたうように日々を過ごしていた高貴なマダム・キャロライン。オマーの訪れがきっかけとなって、彼女は自分を見つめなおすことになります。自分は何者なのか。ここに留まっているのは正しいことなのか。ここが最終目的地なのか?

そんな彼女ですが、最終章では新たな家族ができたことが明かされています。

キャロラインの夫は、立ち上がって彼女を通した。そして、彼女が席に着くと、身を乗り出して肩にはおったショールを整えてやった。彼女が香水をつけてきたのが、彼にはわかった。彼は体を寄せて香りを吸い込み、彼女のほほにキスをした。

私、この描写とても好きなんです。たった数行の短い文章で、名前さえ明かされていない端役のキャロラインの新しい夫が、いかに彼女を大切にしているのかがわかって。この部分読んでると、なんだか胸がじんわり暖かくなるような気がします。新たな一歩を新たな人とともに新たな土地で歩みだしたキャロライン。彼女が幸せになって良かったなあ。



まとめ

南米ウルグアイの田舎を舞台に、人生の最終目的に向けて、それぞれの登場人物が少しずつ動いていくお話でした。読後感も爽やかで、読むと心地よくな
れる本だと思います。

翻訳も上手かったです。簡素だけど繊細な日本語訳で、翻訳文にありがちな違和感はほとんどなく、かなり読みやすいと感じました。