sorachinoのブログ

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服部まゆみ 『一八八八 切り裂きジャック』

一八八八 切り裂きジャック (クイーンの13)

一八八八 切り裂きジャック (クイーンの13)


この小説は1888年にロンドンで実際に起こった切り裂きジャック事件を題材に物語が進んでいくミステリ小説です。切り裂きジャック事件について興味があったので読んでみました。

いや~面白かった!!


あらすじ

 大正十二年、還暦を迎えた作家の柏木老人の回想から物語は始まる。


 35年前の1888年、当時25歳だった日本人男性の柏木薫(かしわぎかおる)は、文部省派遣の国費留学生として、ベルリンに渡り解剖学を専攻していた。しかし彼は、親友の鷹原惟光(たかはらこれみつ)から聞いたエレファント・マンの話に心惹かれ、留学先のベルリンから海を渡りロンドンへとやってきた。ロンドンに滞在していた鷹原の下宿に部屋を借り、エレファント・マンことジョーゼフ・ケアリー・メリックに会いにイースト・エンドにある王立ロンドン病院を訪ねる柏木。


その頃、イーストエンドのホワイトチャペル地区では連続娼婦殺人事件が発生していた。日本の警視庁からスコット・ランドヤードに派遣されている鷹原は事件の調査を始め、一方ロンドン病院に落ち着きジョーゼフ・メリックの主治医であるトリーヴス医師に師事することになった柏木も事件に巻き込まれていくのだが…!?というお話。


ヴィクトリア朝と道徳

本書が切り裂きジャック事件とエレファント・マンという二つの要素を真っ向からぶつけた作品であることの意味を、最初はちょうどどちらもヴィクトリア朝の出来事及び人物であり、ロンドンのイーストエンドということで、時代的にも地理的にも重なっているからなのかなと単純に考えていました。
 
けれど、やはりそれだけではないのでしょうね。

切り裂きジャックエレファント・マンに共通しているのは、この両者を巡る周囲の人々の道徳が剥がれ落ちてしまったことにあるように思います。これは、ヴィクトリア朝という時代をとてもよく表している出来事なのだろう、と思う。

ヴィクトリア朝は、“勤勉”や“性の隠微”、“良識”など厳格な道徳が規範として機能し、中流階級は理想的な紳士や淑女というものを目指していた時代だといわれています。

けれども同時に、その厳格な道徳観は抑圧的であり偽善的でもあったということもよく指摘されているんだとか。この“偽善的”という矛盾が、切り裂きジャック事件への周囲の反応とエレファントマンへの周囲の反応に共通しているものなのかもしれません。

「[略]芝居や物語の中の殺人鬼よりももっと恐ろしい怪物が、現実に跋扈している……このロンドンで……自分と同じ空気を吸い、ひょっとしたら道ですれ違ったかもしれない……客席から突然舞台に上げられたような恐れと困惑、それにぞくぞくするような興奮を味わっているんだ。退屈な日常生活に突然照明が当てられ、音楽がなる。役者が客席に下りたのか、自分が舞台に上がったのか……とにかく、このロンドンでとんでもないことが起き、そして自分はここに住んでいる……新聞を見る度に、雑誌を見る度に、その興奮を味わうんだ[略]」

このように『一八八八 切り裂きジャック』では、センセーショナルで猟奇的な事件に対する好奇心と興奮からこぞって新聞を買い大騒ぎする市民の姿が描かれています。彼らは、売春婦という自分達より明らかに下の階層の女性たちが被害者となっていることによって、立派な市民の自分は襲われることはないと安全圏から劇場型の元祖とまで言われるこの事件を“楽しむ”ことができました。

同時に、ジョゼフ・メリックに先を争って見舞い、施しを与えようとする上流階級の人々の姿も描かれています。主人公の柏木薫も、自分がエレファントマンに会いにロンドンへ来たのはエレファントマンの畸形を目にすることによって心の平安を得ようとするためだったのではないか、と自らの態度を批判的に内省しています。

だからこそ、この二つを中心にヴィクトリア朝の風俗を描き当時の実在の人物を大量に登場させた本書は、その構成の絶妙さに感心しましたし、とても面白かったです。本当にいいところに目をつけたな、と思う。


ヴィクトリア朝の実在の登場人物たち

この小説は、ヴィクトリア朝の雰囲気と風俗を存分に味わえる作品となっています。何しろ主人公の語り手が日本からの留学生なので、外部からの旅行者の視点で当時のイギリス社会を描写しており、読者も彼が見聞きすることをまるで一緒に体験しているかのような気分になれるのです。プチ旅行感覚。しかもタイムスリップというおまけつき。

というわけで、きっと事前にある程度の知識(切り裂きジャック事件やエレファント・マン、イギリス文学、ヴィクトリア朝の文化人についてなど)があったほうが面白く読めるだろうなぁと思います。

人によっては切り裂きジャック事件やイギリス文化に何の興味も持たずに読むと、登場人物の多さと、長さに疲れてしまうかも。というか、数年前の私がそうでした。もともと日本史畑の人間なのでイギリス文化史にはさっぱり無知で、次々と登場する見知らぬ横文字の名前に対応しきれず、そのときは途中で脱落しています。

再度この本に挑戦した今回、長かったけれど一気に読めたのは、事前に切り裂きジャック事件に関する本を数冊読んでいたせいか、登場人物達に親しみを持てたおかげだと思います。

例えば、バーネット*1を犯人と考えるブルース・ペイリーの『切り裂きジャックの真相』を読んだ後だったので、ジョゼフ・バーネットが登場するシーンはちょっと嬉しかった。

こういう歴史上の実在の人物(とはいえバーネットは無名の人物に近いですが)が、きちんと血の通った人間として文章の中で動いたり喋ったりしているのは、研究書や学術論文には無い楽しみであって、小説を読むことの特権ですよね。


あと、アバリーン警部*2とジョージ・ゴドリー巡査部長が登場していて、ついつい映画『フロム・ヘル*3ジョニー・デップ演じるアバーライン警部やゴッドリー巡査部長のヴィジュアルで想像してしまったり。 


その他、例えばヴァージニア・ウルフ北里柴三郎森林太郎谷崎潤一郎西園寺公望、石川小五郎(河瀬真孝または河瀬安四郎)、ベルリン大学のライヘルト教授、ヘンリー・ライダー・ハガード*4、フィリップ・ツー・オイレンブルク*5、シメオン・ソロモン*6をはじめとして文化史や政治史、科学史における有名人物が数多く登場しています。


まぁヴァージニア・ウルフくらいは流石に知っていましたが、マダム・ブラヴァッキーは知らなかったので彼女が登場する場面では、元ネタがわかっていれば絶対にもっと登場を楽しめただろうなと、もどかしい思いもしました。あと、バーナード・ショーの周辺の人物としてウィリアム・モリスがちらっと出てきたときは、あれ、ウィリアム・モリスって聞いたことあるな、誰だっけ、そういえば大学のイギリス文化の授業中に習った壁紙やら書籍の装丁で有名な人じゃなかったっけ?とうろ覚えの知識を総動員して読んだり…。こんな風に、この作品を読んでるとついヴィクトリア朝への興味や関心が高まってしまいました。

名前の付いた登場人物は百名以上。一応、巡査から子供に至るまで、実在の人物です。その中に七人ほど、架空の人物を織り込みました。また、日時とは結びつかない日時のはっきりとした史実で、二つほど嘘も入れました。マニアックな読者の方、お解かりになりますか?

と、あとがきに書かれていましたが、もちろんマニアックな読者ではないのでわからなかったです…。でもこういうの全部わかったらとても楽しいだろうなぁ。七人の架空の人物は誰なんでしょうね?とりあえず柏木薫と鷹原惟光で二人かな?


キャラクターと文学ネタ

本書は、切り裂きジャック事件の犯人を推理するミステリ的な楽しみだけではなく、作中に散りばめられている文学ネタを楽しむという楽しみ方もあると思います。

例えば、探偵役を務める鷹原というキャラクター。彼のモデルは、明らかに源氏物語光源氏です。そのせいか、どれだけスーパーマンなんですかとツッコミを入れたくなるくらい凄まじい出来すぎ人間でした。男も見とれるほどの類まれな美青年で、伯爵家の長男で、社交性が高く身分を問わず持て囃されて皇太子にも王子にも好かれる性質で、広い知識と鋭い知性を持ち、度胸もあって、体も頑丈で、上品で、でも暗い出生の秘密を抱えていて……。しかも老人になってからも

月を背に、老いても美しい顔が笑っていた。

とまで描写されているんですから、もはやここまでくると天晴れ!な感じもしないでもない。超人ぶりにうんざりする読者もいるのではとは思いますが、私は光源氏をモデルにしているんならこれほど非現実的なまでの超人ぶりもむべなるかなと、つい納得してしまいました。ちなみに小説論について柏木と鷹原が意見を交わす場面で源氏物語について触れていたり、キャラクターの名前も「惟光」「柏木」「薫」など源氏物語から取ったと見える名前をつけていたりと、源氏物語ネタは幾つか見受けられます。

それにしても鷹原って髭あるんだ!びっくり!あまりにも「美青年」と強調されるので、なんとなくつるりとした顔なのかと思ってましたよ。髭面の美青年かぁ、いや、髭面というとなんか野趣に富みすぎてるイメージですが、彼の場合はチョビ髭の美男子なんですよね。ふむ。


主人公であり語り手である柏木も文学と縁が深いキャラクターです。彼は、結構うじうじした性格で、いろいろと劣等感や自分は何をすべきなのかと進路に関する悩みを抱えていると描かれている。本書はミステリ小説であると同時に彼の成長物語としての側面もあるようで、イギリスで小説というものに出逢い、惹かれ、やがて自らも執筆をはじめたことで、彼は自分の進むべき道を見つけ出します。以下は柏木の台詞です。

「[略]こんなに心踊り、わくわくしたことはないよ。物語というのは素晴らしい。バートンの言葉通り、物語の世界でならすべてが可能だ。自由に心を遊ばせることが出来る。そして、もしも可能なら、僕もそういう物語を作り上げてみたい。僕も人間を……人間の精神を、心を、自由に遊ばせたいんだ。地位や名誉、身分や体面に囚われることなく、すべての僕の本を読んだ人々が、王様から乞食へと、熱砂の砂漠から氷点下の凍てつく世界へと、どんな風にでも遊べる世界を作りたいんだ。[略]」

このあたりの柏木の心境を読んでいたら感慨深かったです。というのも本書が舞台としている1888年当時、まだ日本では言文一致体を模索しはじめていた時期であり、西欧的な小説という文芸の黎明期にあったという状況がよくわかる描写だったので(実際、二葉亭四迷の『浮雲』は1887年つまり明治20年から1889年にかけて発表されたものだそうですし)。現在私の部屋にはたくさんの小説がありますが、あの時代柏木のように近代小説という文芸の魅力に取り付かれた文学者達の努力によって、現在の私は小説という娯楽を得ているんだろうなぁなどと面白く読みました。


そして柏木の語る面白い物語や小説の中の世界が読者を惹きつけて離さない力というものは凄いなと、私も本書を読んでいて感じましたよ。まるで見てきたかのようにヴィクトリア朝の闇と光が交差するロンドンの雰囲気を伝えていて、もちろんどこまでその描写は史学的にリアリティがあるのかは私には判断がつきませんが、それでも本書が充分に‘遊べる’魅力的で厚い物語世界であったことは確かです。


ところで国費留学生というエリートなのでお金の心配はする必要もなく、反面国費留学生だというのに熱心に大学に通って医学の勉強をしなくてもよく、さらに下宿には大家がいるので家事をする必要もなく、刺激と先進技術と文化に満ちた異国で、好きな小説を一日中読んでいてもよいだなんて、随分恵まれたいい生活なのでは。

まぁ、それだけ小説というものには人を耽溺させる魔力があるということを表現しているのでしょう。小説を時間も忘れて読み耽り、物語の世界にどっぷりと浸かることの快楽というのは、本好きの一人としてわかる気がするけれども。


それと文学ネタとしては、大英博物館図書館を訪れる文部官僚の田中稲城の登場も面白かったです。どうやらこの登場人物は、のちに日本の帝国図書館の初代館長になった人物がモデルらしい。また、『アラビアン・ナイト』と聞いて顔を赤らめる良識ある中流階級の奥方とかの小ネタも面白い(当時『アラビアン・ナイト』は今のように子供向けのものではなく破廉恥なものという認識があった)。その他、ヴァージニア・ウルフ谷崎潤一郎森鴎外、ヘンリー・ライダー・ハガード、リチャード・バートンの登場など、作家さんの文学への愛が感じられます。


ミステリとして  以下ネタバレがあります。未読の方はご注意を!

犯人の正体は意外で面白かったです。エレファント・マンが犯人だという珍説はどこかで読んだことがあるような記憶がありますが、本書における切り裂きジャックの犯人が、他の書籍で犯人として名前が挙がっているのは見たことは無いな。著者の一からの想像なのか、それとも他の誰かが彼を犯人とする説を立てていたのだろうか。どちらにしても意表を突かれました。

柏木がジェームズ・ケネス・スティーヴンを疑う一方で、私は王室関係者がかなり登場していることからいわゆる王室関与説に沿った物語を紡いでいくのかと途中までは思っていたのですが、いやはや気持ちよく騙されましたよ。なるほど、そっちか!という感じで。ちなみに、史実との絡みで犯人が逮捕されない理由を描いていたのも良かったと思います。

ただ、鷹原の謎解きの説得力については、う~んどうだろう?という気は若干します。また、本当にあんな程度の脅しでその後の何十年という人生、犯罪を起こさずにあの犯人は生きていけたのかという疑問も。保身と理性で殺人衝動を抑えられるなら、最初から連続殺人なんて犯さないのでは? 

それにしても、連続殺人犯の濡れ衣をかけられて、一週間も隠し部屋に監禁されて(食事と排泄は大丈夫だったのか?)、同性愛関係の相手との諍いに端を発して隠していた女装癖を家族に暴露され、その挙句病院に収容されただなんて、スティーヴンが気の毒すぎる。だって殺人犯と目された人物が、明確な証拠が無く逮捕出来ないため、その代わりに「紅や白粉姿で人目に晒される」という罰によって身を破滅させられるんですよ?なんてえげつない私刑なのよ。ドルイットと柏木のばかー!

舞台にしている時代が時代なのでそれだけ異性装愛好者は迫害されていたということを表現しているのかもしれないけれど、‘成人男性が女装愛好を周囲に暴露されること’と‘連続殺人を犯して逮捕されること’を代替可能な行為として物語が展開するのって、なんか釈然としないというか危うく感じるというか。本書に限らず異性装や同性愛を作家が描くとき、やたら破滅的なもの・退廃的なものとして物語世界で扱っていると、私はもうちょっと慎重に描くかポジティブな要素と絡めて扱ってもいいのでは?と読んでいてヒヤヒヤしてしまうんですが。その作品が好きだと尚更。

まとめ

ヴィクトリア朝への興味と関心を掻き立てられた一書としてとても面白かったです。最初は図書館でハードカバーを借りて読んだのですが、つい手元に欲しくなって文庫版も買ってしまいました。

*1:切り裂きジャック事件の最後の被害者といわれているメアリ・ジェイン・ケリーの交際男性

*2:ハードカバー版ではアバリーン警部補と書いてあったけれど、その後手に入れた文庫版ではアバーライン警部と変更されていました。文庫版で解説を書いているリッパロロジスト仁賀克雄さんの本でもアバーラインでしたし、『フロム・ヘル』でもアバーラインとなっていたので、「Abberline」の日本語訳は「アバーライン」で定着していると考えていいのかもしれません。

*3:切り裂きジャック事件を題材にした映画。

*4:イギリスのファンタジー作家、冒険小説家で、『ソロモン王の洞窟』やその続編群(アラン・クォーターメインもの)を著した。

*5:ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の側近。

*6:イースト・エンド生まれのラファエル前派の画家。

ピーター・キャメロン 『最終目的地』

最終目的地 (新潮クレスト・ブックス)

最終目的地 (新潮クレスト・ブックス)

面白かったです!
人生の次のステップへ進むための希望を抱ける文芸作品でした。

あらすじ

1995年9月。カンザスの大学院で博士課程に在籍しているオマー・ラザキは、三年前に亡くなったウルグアイの小説家ユルス・グントの研究をしていた。大学から研究奨励金を得てユルスの伝記を執筆するには、遺族の公認を得なければならない。オマーは、ユルスの遺族たちが住むウルグアイの田舎の豊かな緑に囲まれた邸宅へ赴いた。

そこに暮らしていたのは、ユルス・グントの未亡人キャロライン、ユルスの愛人アーデン、ユルスとアーデンの幼い娘ポーシャ、ユルスの兄アダム、アダムの恋人ピートである。彼らは豊かで静かで平穏な、そしてどこか倦んだように停滞した時間を過ごしていた。

遺言執行者たちの公認を求めて遠路はるばるオマーがやってきたとこで、じわりと時間は動き出す。新たな恋に落ちる者、あえて屋敷を離れていく者―――。そしてオマー自身の人生もこの南米訪問で岐路に立つことに。それぞれの人生の最終目的地とは?


何気ない会話文

会話文が特徴的な小説だと思います。

まず、分量が多い。もちろん風景描写やみっしりとした内省描写もありますが、劇的な事件が起きる訳でもなく、主要登場人物同士のお喋りが主体となって物語は進んでいきます。その会話の多さから、読み終えたとき上質な会話劇の舞台を見終えたような心地がしました。

会話の内容もさりげなく魅力的です。何気ない言い回し、さらりと出てくる言葉、その端々になんとも言えないお洒落感というかセンスの良さを感じます。軽妙で、上品で、繊細で、どこか知的な感じ。ちなみに私のお気に入りの会話文はこちら(↓)。老紳士アダムが、若い恋人ピートにタイを結んでもらった時に言葉を交わす場面です。

「蝶ネクタイを結んでくれてありがとう。このタイをするとハンサムに見える。昔からのお気に入りでね。一九五五年にベネチアで買ったのだよ。しあわせなときは、美しいものを買うのが大事だ。このタイを見ると」―――アダムは襟元の蝶ネクタイに触れた―――「わしにもしあわせな時代があったことを思い出す」
「どうしてしあわせだったんですか」
「忘れた。そんなこと知るもんか。しあわせだった事実を思い出すだけで十分だ。わしはたしかにしあわせだった。さもなければ、こんなに美しいタイを買うはずがない」

もう一つ、とても些細だけれど好きな会話があります。キャロラインという美しい中年女性が、外食をした後に、滞在している亡妹のアパートメントのエレベーターの中でたまたま一緒になった他の住人と交わした何気ないやりとりです。

キャロラインは、さっき通りがかったレストランの外のテーブルに席を取って、ひとりで夕食をとった。心も体も疲れ果てていたが、鋪道の小さなテーブルに座っていると、気持ちがよかった。通り過ぎる人たちが、彼女にほほえみかけた。食事にあわせてワインを二杯飲み、食後はコーヒーを頼んだ。静かな都会の通りの木の下で、街灯に照らされてただ座っているよろこびを、もっとゆっくり味わいたかったからだ。

夕食の後は犬の散歩に行って、その帰りにプログラムのようなものを持っている女性二名とアパートメントのエレベーターで一緒になります。

「どちらに行ってらしたの?」彼女はプログラムを目で示した。
「ああ、バレエです」
「いかがでした?」
「すてきでした」
エレベーターが停まった。もうひとりの女性がドアを押し開け、「おやすみなさい」と言った。
「おやすみなさい」キャロラインも言った。

気持ちの良い場所でゆったりと食事をとって、犬の世話をして、隣人とこんな何気ない言葉を交わす、これってなんか凄くいいと思いません?日常の中の幸福、というか。

本の表紙の折り返し部分に「この小説のなかの会話は、近年最高のものだ」という書評が引用されているのですが、やはりこの本の会話文に魅力を感じた人は多かったんだろうなと思います。


不思議な家族

ところで、さらりと描かれているけど、グント家の妻妾同居・祖父と孫ほどに歳の離れたゲイカップルって題材、よく考えると結構凄いですよね。ミステリ作家だったらドロドロの人間関係と陰惨な殺人事件を描きたくなるスキャンダラスなシチュエーションでしょう。

しかし作家ピーター・キャメロンの筆にかかると、登場人物はそこそこ仲良く平穏に暮らしています。そこが意外で面白い。

まず、妻妾同居のキャロラインとアーデンについて。キャロラインは、自身でも説明できない憎しみを抱えていると内心をアダムに吐露する場面があり、この現状に苦しみを感じていることがわかります。そんな彼女が、夫の愛人とその娘と一つ屋根の下に暮らすなんてよく同意したなと思いますが、アーデンの儚げで可憐な性質あってのものなのでしょうし、不思議とこの生々しくない優雅な物語世界の中ではそういうのもあるんだろうなと呑み込んでしまえました。ユルス亡き後キャロラインとアーデンは微妙な距離感とバランスの下で、互いにある程度の思いやりと敬意を持ってともに過ごしていたように見えます。そこには不思議な連帯と絆がありました。

一方アダムとピートについても、普通ならヨーロッパ系の裕福な老人とアジアの途上国出身で元セックスワーカーの若者のカップルというとなんだか経済格差と売買春の痛ましさを嗅ぎ取りたくなるものなのではないでしょうか。実際2人の出会いはそういうものに近かったのかもしれませんが、ウルグアイで暮らす彼らにはもはやそういう影はあまり感じません。アダムはピートを伴侶として大事にしており、周囲もピートを単なる愛人ではなくパートナーとして扱っています。忠実にアダムの世話をするピートも、お金のためや義務感だけでアダムと一緒にいるわけではなく、愛ゆえに‘離れたくない’と思っている。しかし自分でも認めていなかった‘ここを出ていきたい’という気持ちをとうとう秘めきれなくなっったとき、アダムが泣くピートを抱きしめて慰めるくだりには、年上らしいアダムの包容力と愛情深さが光っていました。

家族というのは計り知れないもので、ユルス・グントの遺族たちのように、傍からは珍奇で規格外に見えても、実は絆を育んでいることもあるのでしょう。


さて、そんな中でたゆたうように日々を過ごしていた高貴なマダム・キャロライン。オマーの訪れがきっかけとなって、彼女は自分を見つめなおすことになります。自分は何者なのか。ここに留まっているのは正しいことなのか。ここが最終目的地なのか?

そんな彼女ですが、最終章では新たな家族ができたことが明かされています。

キャロラインの夫は、立ち上がって彼女を通した。そして、彼女が席に着くと、身を乗り出して肩にはおったショールを整えてやった。彼女が香水をつけてきたのが、彼にはわかった。彼は体を寄せて香りを吸い込み、彼女のほほにキスをした。

私、この描写とても好きなんです。たった数行の短い文章で、名前さえ明かされていない端役のキャロラインの新しい夫が、いかに彼女を大切にしているのかがわかって。この部分読んでると、なんだか胸がじんわり暖かくなるような気がします。新たな一歩を新たな人とともに新たな土地で歩みだしたキャロライン。彼女が幸せになって良かったなあ。



まとめ

南米ウルグアイの田舎を舞台に、人生の最終目的に向けて、それぞれの登場人物が少しずつ動いていくお話でした。読後感も爽やかで、読むと心地よくな
れる本だと思います。

翻訳も上手かったです。簡素だけど繊細な日本語訳で、翻訳文にありがちな違和感はほとんどなく、かなり読みやすいと感じました。

髙樹のぶ子 『ナポリ 魔の風』

ナポリ 魔の風 (文春文庫)

ナポリ 魔の風 (文春文庫)

恵美子はナポリ滞在中に風変わりな男を紹介された。舞台美術家・ドニ鈴木。250年前のオペラ歌手の生れ変りと称するドニは、妖しく強烈な精気を放っていた。彼の妄言を受け流そうとするも、その魔力に翻弄されてしまう恵美子。やがて恵美子の恋人をも巻き込んだ三角関係は性も時空も超えた官能へと発展する。

髙樹のぶ子さんの小説を読むのは初めてです。カストラートが題材というのに惹かれて読んでみました。

作中に幽霊は出ませんし猟奇的な殺人事件も起きませんが、色々な意味で怖い小説でした……! ホラーかよってくらい私には怖く感じました。



カストラートが題材のストーリーということで、本書を読む前は、華麗な劇場の舞台に立ち歌声の美しさと超絶技巧で観客を驚愕させる栄華の頂点を極めたオペラ歌手が出てくるのかなぁと予想していたんですよ。それこそ、ジェラール・コルビオ監督の映画『カストラート』で描かれたファリネッリのような。

ところが、意外なことに本書に出てくるカストラートはそうではありませんでした。オペラ歌手としては成功しなかった人物なのです。

ピアノ教師の主人公恵美子は、ドニ鈴木と名乗る不思議な男に出会います。彼は、自分の前世は18世紀のナポリに生きたカストラートのドメニコ・ファーゴ(架空の人物)であり、当時裕福な貴族だったサンセベーロ家の当主ライモンド・デ・サングロ(こちらは実在の人物)に召し抱えられていたと主張します。彼は、前世の自分を手記の中でこのように表現しています。

 私の歌手としての才能は、音楽院の中では特別扱いされるほどだったが、舞台に立ってみるとローマやフィレンツェから来た若いカストラートたちに及ばず、相変わらず合唱隊の一人だった。
 少年の声を保ち続けるのに苦労はしなかったが、カファレッリやセネジーノのような、太くて強くてしなやかな声を手に入れるのは、絶望的だった。
 私はそれを悲しく思うのではなく、ライモンドのためだけに歌える幸福を味わっていた。ライモンドは、私が金の卵を産むニワトリでなくなっても、失望しなかった。私の歌声は、彼とサンセベーロ家の人々と、亡くなった家族の魂を慰めるには充分だったし、時折ギャンブルのように他家のカストラートと歌合戦をする場面でも、若い私が負けることは一度もなかったのだから。

ドニ鈴木の前世のドメニコは、王侯貴族のお抱え歌手として主人のためだけに私的な場で歌うことに喜びをおぼえる人、という描き方をされていて、そうかー、そういうカストラートもいたんだったか、劇場で観衆のために歌い持て囃されるオペラ歌手だけがカストラートのキャリアじゃなかったなと思い至りました。ドメニコ・ファーゴはアリアを朗々と歌い上げるパワフルな声量に恵まれなかったようなので、大きなハコよりもこじんまりとした室内楽に適した声質だったのかもしれません。きっと宗教曲とかが似合う清冽な美声だったんだろうなー。

そういえば、実在したカストラートファリネッリ自身も人気絶頂のわりと若い頃(確か30歳前後)にオペラの舞台に立つことは止め、スペイン国王フェリペ5世とその息子フェルナンド6世の専属歌手になったのですよね。フェリぺ5世は、鬱病不眠症音楽療法としてお気に入りの数曲をファリネッリに毎晩寝室で歌わせていたとか。生の極上の美声を毎晩味わうとは、凄まじい贅沢ですね。

ドメニコが、主人ライモンドがパトロンをしている他の芸術家の一人から、

「女はカストラートをちやほやし、愛玩物のように扱い、やがて捨ててしまう。女に愛されようなんて思わないことだよ。カストラートを本当に大切にするのは音楽がわかる男だ」

などとアドバイスを受けるシーンがありますが、うーん、これは単に権力者が男である場合が女のそれより圧倒的に多いというだけだと思いますけど、まぁ何にせよ当時の芸術活動にパトロンは必須なものでしたから、10代で領主ライモンドに見出され寵愛を得たドメニコは幸運でした。

ちなみに、カストラートはオペラで活躍する、王侯貴族の専属歌手になる、以外にも音楽教師になるという道や、教会に属して聖歌隊として歌う、といったキャリアもありますね。作中の人物が、

「ローマではオペラ劇場で歌うカストラートたちより、システィナ礼拝堂の聖歌隊カストラートの方が幸福な目をしていた」

こう言ってますが、これ史実はどうだったんでしょうね? もちろん一概には言えないでしょうけれど、確かにローマ法王カトリック教会は強力なパトロンですし、聖歌隊としての活動に宗教的な意義を見いだせれば精神的にも好影響でしょうし、やはり幸福度は高かったのでしょうか。オペラ歌手は活躍できれば名誉と財産を得られますが、そこまで上り詰められるのは一握りですし、次々と若手が現れて競争も激しく、人気商売は色々と苦労も多かったろうと思います。浮き沈みのあるオペラ歌手よりも、安定した聖歌隊士の方が性に合っているカストラートもいたことでしょう。

本書のドメニコ・ファーゴはボローニャでの去勢手術から無事生還し、ナポリの音楽院で最高の教育を受け、貴族のお抱え歌手となれるくらいには音楽的才能にも恵まれ、雇用主のライモンドと良好な関係を長期間にわたって築き(時には寝所に呼ばれて男色の相手になるほど)、その間ずっとライモンドの館で暮らしました。去勢手術が原因で亡くなったり、また手術に成功しても音楽的才能に乏しく音楽の道を歩めなかった少年が大勢いたことも考えれば、彼はかなり幸運です。決して悲惨な境遇だったわけではありません。

しかし、去勢の代償で手に入れたものとしてそれは充分だったのか、本人はカストラートとしての生き方を納得できていたのか、息子をカストラートにすることを決め子供を捨てた母親についてドメニコは何を思ったのか―――――もちろんドメニコ・ファーゴの苦悩と恨みは深く激しいものであったということは、生まれ変わりのドニ鈴木の言動を通して語られていました。


ドニ鈴木は、主人公の恵美子視点で見ると、なかなか意図が読めず得体が知れなくて不気味な人物に映ります。肉体は成人男性でもメンタルは前世のカストラートのままで、コンプレックスや女性(母親?)への憎悪を心に抱えていて、恵美子に接触してくる時にも少年のように無邪気に装ったり弱弱しく振る舞ったり甘えたり怪しく誘惑したりと悪魔的で怖いんですよね。恵美子は「宇宙人」「脳細胞が混乱した男」「マザコンの化け物」と罵っていますが、まぁそう言いたくなる気持ちはわからないでもない。

「女を抱くことは出来ないの」
「出来ますよ。やってみますか?」
カストラートも女を抱いたの?そんなこと出来たの?」
カストラートももちろん女を抱きました。たくさんの女を抱いた。妊娠の心配がないから、女たちに大モテだった。僕もですよ。恵美子さんを抱いてもいいのかな」

これ恵美子とドニ鈴木の会話なんですが、「出来ますよ。やってみますか?」とは、なんという人を食ったような回答をする男……w こんな風に図々しく迫ってくるくせに、いざ彼女と寝る時は恵美子にドメニコ・ファーゴを捨てた母親を重ね合わせて、いつもの卑屈な態度を豹変させて激しい憎しみをぶつけて罵倒してくるという、怖いにもほどがあるんですよ、この男……!! セックス中、あんな風にされたら普通トラウマになりますって……。

恵美子視点で迎えた結末も、三角関係の着地としてカップルの組み合わせが意外で面白くはあるものの、ドニ鈴木にしてやられた感が強く、エグくて後味が悪いです。個人的に、本書の読後感はあまりよくなかったですね……。

ただし、追いつめられ復讐される側の恵美子視点だったからこそ怖いお話と思いましたが、恵美子を翻弄するドニ鈴木の側から見た物語であったなら、前世の恋人を追い求める健気でロマンチックでハッピーエンドのラブストーリーと捉えることも可能かもしれません。実際、ドニ鈴木はかつての恋人に対しては健気に純愛を抱いているように描かれています。この、登場人物の視点によって物語の印象がガラッと変わる、というのは、本書にモチーフとして出てくる「ルオータ」というターンテーブルと通じるところがあり、面白い点だと思います。


というわけで、ドニ鈴木の不気味さを延々と語ってきましたが、それはまぁ、ぶっちゃけ物語上そういう配役だから問題ないといえば問題ないんですよ。本書の面白さを担っているのはこの人物の強烈さと魔性さと外連味のある吸引力ですし。

以下、辛口意見になりますが、正直な感想を述べておきます。実は、ドニ鈴木以外のキャラクターに対しても、私はあまり好感を抱けなかったんですよね……。この小説に出てくる登場人物は、言動が支離滅裂で他人に優しくない人が多くて、読んでいると不快感を覚えます。

例えば、主人公の恵美子。彼女は、いい年をした大人なのに初対面の相手に酷く自意識過剰で侮辱的な物言いをします。ちょっとげんなりしまして、こういう性格の人好きじゃないなぁ、人としての情緒が酷いんじゃ?という印象を受けてしまいました。思考回路も謎すぎて理解できなかったし。主人公の一人称の小説なのにその主人公に愛着を憶えるのが難しいとなると、ちょっと読んでるのが辛かったりしましたね……。もっと心理描写を丁寧にしてほしかったなぁと思います。

恵美子以外にも、ミチコ・カラファという在伊邦人が重要人物として登場しますが、彼女の言うことも矛盾ばかりで支離滅裂、思考回路が謎すぎました。人間らしさを感じなくて怖かったです。もしかして著者は「ズバズバ尖った物言いをする女性は格好良い」という認識があって、そういう風に恵美子とミチコを作中でも描いているつもりなのかもしれませんが、私には誰に対しても無礼で支離滅裂で侮辱的な態度をとる全く魅力的ではない人にしか見えなかった、という……。

時折メインキャラクター同士が噛み合っていない荒唐無稽な会話をどんどん続ける場面があったり、作家さんの「日本人」と「ナポリ」というイメージの使い方に不快感をおぼえたり、そのあたりもちょっと感覚が合わないなと思いました。


さて、本書を読んだ後に私はドミニク・フェルナンデスの小説『ポルポリーノ』を読んだのですが、この『ナポリ 魔の風』は『ポルポリーノ』から強く影響されて書かれた小説だということが実によくわかりました。設定の共通点が多いので、もしかして髙樹のぶ子さんは『ポルポリーノ』に登場した悲劇的な死を迎えるストラートの少年を救済したくて本書を書いたのではないでしょうか。

パトリック・バルビエ 『カストラートの歴史』

カストラートの歴史

翻訳:野村正人


一時期、カストラート歌手という存在に興味を抱き、カストラートの登場する小説を読み漁っていました。そういう小説には文章の中に実在の人物の名前が出てくることが多いので、自然と歴史上の数々のカストラート歌手にも興味が出てきました。ちょっと資料的なものも目を通してみよう、と思って読んでみたのがこちらの解説書です。

非常に興味深く、面白い本でした。夢中になって読みました。

以下、当ブログには珍しく小説でもなく漫画でもない書籍の感想記事となります。

具体的エピソードのオンパレード

本書はとても読みやすかったです。翻訳家の方の手腕もかなり大きいと思いますが、記述の大半が具体的なエピソードばかりなのでとっつきやすかったのもあると思います。様々な資料を引きつつ、「音楽院の組織と学院内の生活」「観客の前での初舞台」「老化と歌声」など多数のテーマごとに実在したカストラートの逸話も添えて解説されていました。著者は至る所でちらりとユーモアをのぞかせていて読者に対してサービス精神も感じますし、決してお堅い研究書というわけではありません。気楽に読めるので、カストラートに興味のある方ならお勧めです。

私は、本書を読んでいて、本当にたくさんのカストラートの名前が現代にも伝わっているんだなぁと驚きました。せいぜい有名どころのファリネッリやカッファレッリくらいしか知らなかったので、その他のカストラートたちの生き生きとした逸話の数々が単純に面白くてたまりませんでした。

ところで、当事者のカストラート歌手や去勢手術を行った外科医や床屋などが自筆の文書をあまり遺していないことを、本書の中で筆者は何度も残念がっています。読みながら、そうそう、本当にそう!と強く共感してしまいました。当事者たちがどんなことを考えていたのか、どんなことを感じていたのか、本当に気になります。現代ではもう聴けないカストラートの歌声を聴いてみたいと思わないでもないですが、それ以上に私はカストラート自身の綴る胸中を読んでみたかったなぁ。


カストラートは一体何がそんなに凄いのか

カストラートの歌声を絶賛する同時代人の記録は数多く残されていますが、一体何がそんなに凄かったのか、単に手術による影響でボーイソプラノの美声を成人男性の胸郭で発声できたという体質的な面のみに留まらず、音楽的な面からもわかりやすく解説されていました。

歌手の音域は十七世紀の間に大きく変化した。だが十七世紀初頭より世紀末の歌手のほうがうまくなったというのではなく、カストラートの声に大いなる可能性を見い出した作曲家たちが、それをいわば徹底的に追求し、カストラートたちに低音域と高音域でさらなる離れ業を要求したからである。

カストラートの輝かしい歌声に出会った当時の作曲家たちはさぞ驚き、そして夢中になったことでしょうね。カストラートの出現によって音楽の表現の幅の可能性が格段に広がったわけですから。「カストラートのために曲を作る」体験は現代の作曲家にはできませんので(もちろん作ること自体は出来ても歌ってくれるカストラートはいません)、当時の作曲家だけの特権であり喜びだったということになります。

一方で、最近はハイレベルなカウンターテナーも登場していますから、彼らを使えることは現代の作曲家の特権でしょう。また、クラシックの世界からは離れますが、ボカロや音響機器の技術の発達した現代だからこそ採れる表現方法もありますね。

さて、話をバロック期に戻します。カストラート歌手に要求された「離れ業」とはどんなものかというと、そのうちの一つがカデンツァです。

歌手が自由奔放に声楽的な離れ業を見せることができるのは、自分たちの創意に任されたカデンツァ部分であった。当時の観客を満足させるためには、アリアを三部構成で展開(AーBーA)し、最初より二番目、二番目より三番目のカデンツァと、装飾の度合いを増していかなければならなかっただけに、なおさらカデンツァは重要であった。しかも歌い手は自分の技巧を見せるだけで良しとはせず、音楽的な趣味のよさも示す必要があった。声楽はたえず創造的であらねばならず、五線譜に書かれた音符のまま歌うだけではいけなかった。

これは大変だ。その分、舞台上での歌手の裁量の幅が広くて、歌手にとってやりがいは大きかったことでしょう。

カストラートの声域について。

当時の楽譜を見るかぎり、先に述べた極限的な音域が使われるのは極めて稀であった。聴衆は優れた技巧に度肝を抜かれることを望んでいるのであって、高々ハ音を聴かされることなどに興味はなかった。むしろ高音の歌手が出す低音を好んでいたことは明らかであった。というのも、その低音はより響きが官能的で、高音よりはるかに強い感情的な力が込められていたからである。

わかる~!! いや、もちろんカストラートの声は聴いたことありませんけど、カウンターテナーの歌声を聴いてると高音より低音の方がゾクゾクするんですよ。そう、官能的なんですよね。妖しい魅力があるんです、高音歌手の低音は。私は、ドイツ人カウンターテナーアンドレアス・ショル氏のファルセットの低音が大好きでして……!特にアンドレアス・ショル氏の歌う『フロー・マイ・ティア』の低音部分は、聴くたびにグッと腰にくる感じがして、もう本当に大好物です。

事実その声域こそがカストラートに特権的なものであった。作曲家たちも作品の中では情感を表現するのに最も適した中音域を好んで使い、この並外れて美しい声が持つ響きと心地よさを際立たせようとした。ファリネッリのアリアの大半は、イから二点ハ、つまり声を危険に晒さなくてもすむアルトの平均的な音域に収まっている。

ソプラノ歌手と言われたファリネッリでさえも、実際にはアルトの音域の方を歌う方が多かったというのは驚きです。てっきりカストラートというといつも高い音域で歌っているイメージがありましたよ。まぁカストラート歌手にとっても、曲芸的な高音よりも声帯の寿命を早める心配が少なく歌いやすい中音域の方が好まれたのでしょうね。


個々のカストラートについて

本書を読んでいて、特に気になったカストラート歌手を以下にピックアップしてみました。

ジローラモ・ロジーニ(去勢者ヒエロニムス・ロジヌス・ペルジヌス)

ジーニは、ピエトロ・パオロ・フォリニャーティ(去勢者ペトルス・パウルス・フォリニャトゥス)とともに、1599年、公式に教皇聖歌隊に加わった初のソプラノ・カストラートの内の一人です。両者ともイタリア人でした。

だがロジーニが実際に認められたのは一六〇一年以降のことにすぎない。それほどにイタリア人初の「登場」は物議を醸したのだった。スペイン人の聖職者である歌手は(彼らはファルセット歌手だったのか、それともカストラートだったのか)まさしく抗議の叫びを挙げ、長年の特権によってスペイン人専用とされた地位に彼が就こうとするのを妨げたのであった。初めロジーニはこのような激しい圧力に屈せざるをえなかった。しかし彼にとって幸いなことに、入団試験に立ち会ったクレメンス八世が彼の声の虜になってしまった。が時すでに遅くロジーニはローマを離れ、カプチン会修道士になっていた。スペイン人の陰謀に怒ったローマ教皇はペルージア人のロジーニを呼び戻し、「教皇礼拝堂の聖務のため」という理由で、彼が修道士になるために行った盛式請願を解消させたのであった。

1599年までは教皇聖歌隊のソプラノパートを占めていたのはスペイン人歌手だった、という情報は他の書籍で既に知っていましたが、イタリア人カストラートの参入に対する反発が当時これほど激しくゴタゴタしていたものだとは本書で初めて知ったので驚きました。

現在、古くからの慣習に従ってローマ教皇の護衛はスイス人衛兵が担っていますよね。もし、そこに他国人を採用することになったら現代でも大きなニュースになると思いますし、それくらいの衝撃だったのでしょうね、当時のスペイン人歌手にとっては。

聖歌隊に入れたいから教皇本人が盛式請願を取り消させるというのも凄まじい話で、ロジーニは際立った美声だったんだろうなぁ。聖歌隊員の入団記録がきちんと現代まで残っているのもさすがヴァチカン、と脱帽しました。


コルトーナ

あるとき、カストラートコルトーナはバルバルッチャなる女性と激しい恋に落ち、彼女と結婚したいと考えた。そこで教皇に嘆願書を書き、去勢手術が完全ではなかった(たいした理由にはなっていないが)ので結婚するのに問題はないと思う、と申し立てた。すると無慈悲なインノケンティウス十一世は手紙を読むや、その空白部分に「去勢をやり直させよ」とだけ書いたのだった。

女性と結婚したくなったカストラートコルトーナの逸話。

なんという話だ……。インノケンティウス十一世、むごすぎ!仮にも聖職者が慈悲の心とか無いんか…! 著者はこのエピソードを指して「悲喜劇」と呼んでますが確かに教皇の無慈悲っぷりが妙に戯画的で、この話が「人口に膾炙した」というのも頷けます。秘蹟の一つとして宗教的な意義が伴うカトリック社会での「結婚」は、現代日本人の私が捉える以上に重々しいものだったのだろうという事情は加味してもなお、惨い話です。

コルトーナは拒否されましたが、プロテスタント国では結婚して幸せな家庭生活を営んだカストラートもいたと書かれていてホッとしました。

ちなみに本書を読み進めていたところ、コルトーナの意外なその後が載っており、

教皇に結婚の認可を求めて拒否されたコルトーナが、それを諦めたばかりか宗旨変えをして、コジモ・デ・メディチ三世の稚児になってしまった

思わずのけぞりましたよ。バルバルッチャとはやっぱり破局したんですかね……。

カッファレッリ

カッファレッリは、私の中ではカストラート黄金時代のソプラノ歌手というイメージ。この人は色々な逸話がありますが、男性なのに傲岸不遜なプリマドンナ気質で様々なやらかしをしているのが面白いんですよね。本書にも数々のご乱行が書かれていました。

カッファレッリは舞台に足を踏み入れるや否や客を罵倒する、アリアの間奏のあいだにボックス席に近づいて女性と話をする、まるでサロンにでもいるかのように振舞う、オーケストラがリトルネッロを演奏している間に嗅ぎ煙草を喫う、気が向かなければ共演者と歌うことを拒む、共演者がアリアを歌っているとき平気でその歌手を馬鹿にしたり、合いの手を入れて客席を吹き出させるのである。

身近にいたら絶対友達になりたくないタイプの人だ……(笑)でも面白い。他の共演者と殴り合いの喧嘩までするトラブルメーカーだけれども、それでもオペラ界から干されずに有名な歌手になって莫大な財産をその喉一つで稼いだのですから凄い人ですね。

本名ガエタノ・マヨラーノの彼は、バーリに近いビトントの農民の家に生まれた。彼は音楽、ことに宗教的な歌曲に早くから情熱を寄せていた。しかし、彼を農業に就かせることしか考えていなかった父親の意志とぶつかることとなる。ガエタノには将来を嘱望される歌声の萌芽があると早くから見抜いていた音楽家カッファッロは彼に注目しており、手術が生み出す恩恵とそれが家族にもたらす利益を両親に納得させようとした。それで両親の反対は解け、彼はウンブリアのノルチアで手術を受けたあとバーリに帰り、師匠のカッファッロのもとで勉強した。彼はこの子供の声をさらに徹底して鍛え上げ、年月を経ても変わらぬ声にしようとした。この子の進歩と類い稀な天賦の才を目の当たりにし、誠実さと謙虚の人カッファッロは、当時群を抜くマエストロ、ナポリの天才ポルポーラにガエタノを預けたのであった。多くのカストラートがそうであったように、ガエタノは初めの師匠に両親に対するのと同じような感謝の気持ちを示し、カッファレッリの愛称を選んだ。

ビトントはイタリア半島をブーツと見立てるなら踝の位置にあたるイタリア南部の土地ですね。カストラートの出身地は意外と広範囲に渡っているとのことですが、やはり貧しいイタリア南部が多かったそうで、かつ大半が農村出身だったとのこと。カッファレッリはまさしくそんな条件に該当する人物です。

ちなんだ芸名を名乗るくらいですからカッファレッリは音楽家カッファッロを師として敬愛していたのは確かなのでしょう。

しかし、この師こそが幼い日のカッファレッリが去勢される元凶だったわけで、手術によって永遠に失われたものの大きさを理解できる大人になった後のカッファレッリは複雑な思いを抱いたりはしなかったのかなぁと気になりました。少しは恨んだりしたのでしょうか。現代の倫理観だけでことの是非を判断するわけにはいきませんが……。ただ、カッファレッリの才能ならば、カッファッロが見出さなくとも他の誰かに見出されて結局カストラートにされていたのかもしれませんけれど。

カッファレッリは、引退した後の晩年も機会があるごとに聴衆の前で歌ったそうですが、その度に聴衆は歌声の衰えにがっかりした、という記述が残っているそうです。歌手人生の厳しさというか、手の平を返す聴衆の残酷さといか、うーん歌手も大変だ。さすがにカッファレッリも60歳で人前で歌うことは止めたそうですが、それ以前は結構気軽に引退後も歌いたがっていた、というのはカッファレッリが本当に歌うのが好きなんだなと思わせるエピソードで、なんか救われるなぁとしみじみしました。歌に全てをかけた人生を歩んだ人ですから、歌を愛する気持ちを持っていたなら、彼のために良かったと思うのです。


ファリネッリ

カストラートの中で最も名高いカストラートカルロ・ブロスキ。彼の逸話もたくさん載っていましたが、どれを読んでも彼の音楽的才能と人格的高潔さを示すエピソードのオンパレードで凄いです。どんだけ性格良かったらこんなに人格まで褒めたたえられるんでしょう…!? 超人か! 

数々のファリネッリの逸話の中で、個人的に一番ぐっときた記述はこれです。

スペインで異郷の地にあるイタリア人を誠心誠意助けてきた彼は、ボローニャではスペイン出身の貧窮家庭に手を差し伸べ、特に子供たちに衣類を提供した。

20年に及ぶスペイン滞在の後、故国イタリアのボローニャに戻ってきたファリネッリのこの行動を見ていると、本当に彼は真の意味で「国際人」だったんだろうなと思います。単に異国での滞在経験が豊富というだけではなくて、イタリアとスペインをつなぐことをしっかりやってるのが凄いです。

さて、ファリネッリの人生について読んでいると、この人、引き際の見事さがいつも凄いな~としみじみ思います。劇場同士が激しく敵対関係にありゴタゴタしていたロンドンを病気を理由に去るときも、長年のパトロンが亡くなり庇護者を失ってスペインの朝廷を去るときも、すんなりと去っていくんですよ。機を見る聡明さがあり、一つの場所にしがみつかないのが、それだけどこでもやっていけるという自信の表れなのかなと感じました。

さて、ファリネッリといえばコルビオ監督の映画『カストラート』で採り上げられたことでも有名ですが、映画の中では兄リカルドとの関係性も重要な要素として描かれていただけに、本書でも兄の名前が出るとつい注目してしまいました(なお、本書での表記は「リッカルド」)。特に、兄の作曲したアリア『揺れる船』をファリネッリが「トランクのアリア」にしていた、という記述がなんだかほろりとさせられました。

では、そもそも「トランクのアリア」とはどんなものかといいますと、

歌手は誰も、出演しているオペラに自分のレパートリーの中でも極めつけのヴォカリーズつきアリアを差し挟むのが通例であった。しかも、そのアリアは演じられている作品とまったく関係がなくてもよかったのである。これは「トランクのアリア」と呼ばれていた。その訳は、ヴィルトゥオーゾが鞄の中に忍ばせて各地に持って回り、機会がある毎にもっぱら自分自身を目立たせるためだけに歌ったからである。

歌手にとってここぞ!という時の持ち歌だったわけですね。それにしても、上演中のオペラに全く関係のない歌を歌手の勝手で挿入しても良い時代だった、というのは凄い話ですが。ファリネッリが「揺れる船」をトランクのアリアに選んだ理由は、

なぜならアリアの冒頭に極めつけの美しいメッサ・ディ・ヴォーチェがあるばかりか、聴衆から見て息継ぎをしたとも思えないのに十四小節続けてヴォカリーズをする部分があり、さらにアリアの最後にはいつ果てるとも知れぬトリルが置かれていたからである。

私も「夜の船」がどんな曲か気になって聴いてみました。装飾音が多く、華やかな曲でした。

さて、ファリネッリについては、詩人メタスタージオとの長年にわたる友情もなかなか面白かったです。彼らはマドリッドとウィーンに離れていた時でさえも含めて、何十年も文通を続けました。メタスタージオが書いたファリネッリ宛の手紙が残っているのですが、その文面が、なんだか凄まじいのです。

ファリネッリはヴァニラや煙草やキナ入りワインの箱を送った。それに対して詩人はしきりと礼を述べた後、突然考えを変える。「しかしこの短い礼の言葉でも、君の乙女のような恥じらいからしてみれば、すでに長たらしいかもしれない。君の顔が赤くなったぞ。だんだん苛々してきたね。ほうら今度は怒り出した。いやいや、からかっただけだよ。」

なにこの砂糖のように甘い文面は(笑)。恋人宛の手紙か、とツッコミたくなる…! 本書の著者も同性愛的な文章と評していましたが、実際にはこの二人にあるのは性愛ではなく友情だったそうです。余談ですが、私はメタスタージオの書簡について読んでいると、大伴家持と大伴池主の和歌の贈り合いを思い出しました。

バッキアロッティ

水腫が原因で死んだのだが、そのとき彼は「主のささやかな合唱隊に加えて」いただけるように、と神に祈りを捧げていた。

生きているうちに散々歌いまくったでしょうに、天国でも更に歌い続けたかったんだなぁと思うとその歌手魂にホロリとします。歌うのがよっぽど好きな人だったんだなぁ。

ジュゼッペ・ジュリアーノ

この人は、結局有名な歌手になったかどうかはわかりません。というのも、彼はナポリ音楽院の記録文書に、志望動機を書いた入学願書とも言うべき手紙を残している、ということをもって本書に紹介されている少年のカストラートだからです。

「テッラ・デッラ・カステルッチアのジュゼッペ・ジュリアーノは謹んで令名高き閣下殿の御足元にひれ伏し、サンタ・マリア・ディ・ロレート王立音楽院の生徒としてお認めいただきますようお願いいたします。わたくしは去勢手術を受けておりまして、ソプラノで歌います。そして十年間貴音楽院に留まることをお約束します」

こういう文書もきちんと現代まで残っているって凄いですよね。ちなみに、このジュゼッペ少年の入学試験の採点結果も残っており、教師ガッロは以下のように書き記しています。

「令名高き閣下殿の御命令に従いまして、上述の志願者を試験致しましたところ、ソプラノの美声を有しておりました。この者には才能と、歌に秀でたいという意欲が見られ、わたくしもそれを期待しております」

ジュゼッペ少年、どうやら入学は許されたみたいですね。良かった! その後どんな人生を歩んだのでしょう? オペラ歌手になったのか、教会の聖歌隊士になったのか、記録が無いのでしょうか、本書にはその後は書かれていません。音楽の道を歩んでいけていれば良いんですけどね。音楽院での教育は非常に徹底しておりレベルも高かったようですが、その厳しい訓練に耐えかねて出奔する少年も多くいたのだそうですよ。

本書では音楽院での厳しい訓練の内容もあれこれと紹介されていました。私が面白く思ったのは、録音機械のない当時、どうやって歌手の卵たちは自分の歌声をセルフチェックしていたのかという点です。ローマ市街のマリオ山に出かけて行って谺として返ってくる自分の声を聴いたんだとか。なるほど! また、当時の音楽教師は生徒によく、素早くスタッカートを効かせたトリルなどの技術習得のために、鳥の鳴き声を聞いて真似せよ、という指導をしたそうです。自然をうまく活かした教授法なのが面白いです。


ヴァレンティ―ノ

本名はピエール・ヴァランタン、フランス人。もともとはシャルル・ダスシという詩人兼音楽家の小姓をしていましたが、1658年、マントヴァのカルロ三世によってその美声に目をつけられ、誘拐されてしまいます。そしてヴェネチアに送られ、去勢手術をされてしまったのだとか。なにこの怖すぎる話……!! 小説かってくらい数奇な話だ……。ヴァレンティーノはその後人気歌手になったそうですが、カルロ三世酷すぎ。

グァダーニ

カストラート関連の小説で私の一番好きな『天使の鐘』に登場したグァダーニ。

グアダーニは四十五歳ころにコントラルトからソプラノに移った。

おー! 加齢とともに高い音域から低い音域へ下げるのはよくあるけれど、中年になってから高い音域に上げるというのは凄いですね。

ドメニコ・ムスタファ

19世紀のシスティーナ礼拝堂で歌っていたソプラノ歌手。

彼自身は手術の正確な理由をまったく知らなかった。公には、ごく小さい頃ひとりで畑に放っておかれたとき、豚に性器を深く噛まれたと教えられてきたし、別の者(自分の家族であろうか)には先天性の奇形があったので手術をしたと言われた。この説明は二つとも納得できるものだ。

ところが、家族から教えられていたこの手術理由を、彼は信じ切ってはいなかったそうです。

父親は自分の財産を確保しようとして意図的に手術させたのではあるまいか、という疑念に時として襲われ、一生それに苛まれ続けていた

彼はナイフを掴んでこう叫んだ。「もし今、僕をこんなにしたのが父だということが分かったら、このナイフで父を殺してやる!」

そりゃそうだ。怒るわそんなの。ムスタファのこのエピソードは痛ましいことこの上ないですね……。幼い頃に去勢をしていて、本人は手術の詳細や理由を憶えていない状況というのは、アンドレ・コルビオ監督の映画『ファリネッリ』を思い出しました。この映画の主人公も、落馬により去勢したという兄の嘘を信じつつも、薄々真実に気づきつつあったのですよね。実際、こういうパターンは当時結構あったのかもしれないなぁと思います。

ところで「ムスタファ」という姓はイスラム圏っぽい感じがするのですが、ご先祖に中東の血が入った家系だったのかな。


まとめ

とっても面白い一冊でした! 面白すぎて随分たくさん引用してしまいました(しすぎだったかもしれない)。カストラートって聞いたことあるけどどんな存在だっけ?という些細なレベルの興味しか持っていなかったとしても、読めば充分楽しめると思います。お勧めです。

マルグリート・デ・モーア 『ヴィルトゥオーゾ』

ヴィルトゥオーゾ

ヴィルトゥオーゾ

原題:DE VIRTUOOS
翻訳:伊藤はに子

舞台は18世紀前半のイタリア。オペラを愛する街ナポリで、カルロッタは同じ村出身のガスパーロと再会した。カストラートとなり、最高の人気歌手として現われた彼の歌声に魅せられて、恋に落ちたカルロッタは彼の世界を五感でたしかめていく。やがて、オペラシーズンは終わりを迎え...。音楽史上に謎の存在として輝くカストラート(去勢歌手)を、女性の眼を通して描いたベストセラー小説。


著者は、デン・ハーグ王立音楽院を卒業した元ソプラノ歌手、という経歴の持ち主なんだとか。つまり本書は、オランダ人の元声楽家の立場から、オペラの舞台で活躍する若き才能あふれるカストラートの人生について描いた小説でして、そんなの期待するしかないじゃん!とワクワクしつつ読み始めました。


さて、カストラートとは、少年時代に去勢することによって大人になってもボーイソプラノのような美声を成人男性の肺活量で歌うことが出来る歌手のことですね。近代以前にイタリアを中心に活躍しました。当然、人道的理由から現代では存在しません。


一時期、カストラートについて書かれた書籍を手当たり次第に読んだ時期がありました(それらの感想エントリは順次UPしていこうと思っています)。カストラート関連本を読んでいると、頻繁に「その素晴らしい歌声を聴いた貴婦人は失神した」「妊娠しないから浮気相手として貴族の女性に引っ張りだこだった」といったカストラートの歌声を聴いた当時の観客のエピソードが紹介されています。本書はまさしくそんな場面を主人公の目を通して疑似体験できる作品でした。


一人称で語り手を務めるのは、公爵夫人カルロッタです。彼女は、ヴェスヴィオ火山の麓に位置するクローチェ・デ・カルミラという村の出身で、結婚した後は夫の所領であるアルタヴィッラ(ナポリからは馬で3日という距離)という土地に移り住み、そこで二人の娘を生みました。家名を継ぐべき男子を生めていないことにプレッシャーを感じていた中、ナポリ出身の実父が亡くなります。夫の公爵はなかなか気前の良い人で、そんな状況の彼女にナポリにひとシーズン滞在してオペラを堪能する、という素晴らしい気晴らしを与えるのです。豪勢だなー!太っ腹にもほどがある!羨ましい!

娘たちをアルタヴィッラに残し、夫に連れられてやって来たナポリで、彼女は大いに享楽的な日々を過ごします。サン・カルロ劇場に通い詰めてオペラ漬けになって、人気者のカストラートを愛人にし、その他にもフランス人の若者を愛人にし、夫やナポリ在住の異母姉とともに数々のパーティに出席して社交をこなしたり観光をしたり……。これぞ貴族!という感じの贅沢な日々。彼女は二児の母なのですが、娘たちの存在感が物凄く薄いので彼女が子持ちであることをつい忘れます。


お相手役となるガスパーロは、とってもカストラートらしいカストラートでした。農村の貧しい家庭出身で金銭的な理由により去勢され、ナポリの音楽院で厳しい訓練を積み、技巧的なオペラ曲も朗々と歌える素晴らしい声楽家として成り上がり、強烈なプライドと傲慢さで周囲を振り回し、女性相手でも男性相手でも華やかな恋愛模様を繰り広げ―――――、という、ある意味ステレオタイプカストラートのイメージど真ん中、というキャラクターです。


作中、彼が専門用語をガンガン駆使し滔々と音楽の技巧について喋り倒すシーンが何回も出てきます。華やかなパーティの席でも素人相手に、情事の後のベッドの上でも愛人の女性相手に、喋る喋る。音楽の道をひたすら邁進する彼にとって、一番語れる話題といえば音楽なのでしょうし、そして何よりもやはり音楽が好きでいつでもどこでも音楽のことを考えているのでしょう。こういう描写には、声楽家だった著者の経験が反映されているのかもしれないなぁと感じました。

ガスパーロの音楽論をうっとりしながら聞くカルロッタ。彼の言っていることは全て理解できなくても、好きな男性が生き生きと熱中していることを語っている様子は好ましく見てしまうんですよね。私も彼のぶつ音楽論の内容はあまり理解できなかったです(笑)。専門用語使い過ぎで素人には厳しい……。でも、まぁそれがプロの音楽家らしくて良いです。

カルロッタはガスパーロに強く惹かれ、親密度を上げるために共通の話題となりえる故郷の村のことを話しかけたりして、愛人関係に持ち込みます。かといって熱烈に愛し合う恋人同士になったというわけではありません。さらりとした大人同士の遊びを楽しむ関係性に落ち着いています。恋愛小説として読むと本作は肩透かしを受けるのではないでしょうか。わりとカルロッタとガスパーロの関係性が浅いというか表面的なように見えるので。ガスパーロはカルロッタ自身にあまり興味を持っていないんじゃないかな、とさえ私は感じましたから……。

どうも著者は意図的にガスパーロの心中を直接的に描かない方針のようなのです。歴史上、実在したカストラート達もほとんどその心中を綴ったものを遺していませんが、著者はそれに倣ったのかもしれません。もちろん、そのガスパーロの心理描写の意図的な抑制こそが、唯一、最後の最後にガスパーロが自ら唐突に故郷のことを語りだす場面での彼の人間味を効果的に引き立てているのは、私も理解しているつもりです。

でもね、正直に言えば、創作物の中だからこそ、恋愛感情に限らずカストラート自身のさまざまな感情が渦巻く胸中を私は読んでみたかったです……!

例えば、ガスパーロが去勢された直接の原因は、ガスパーロの父との賭けに勝ったカルロッタの父がそれを要求したから、というなかなかにヘヴィな事実があるのですが、その重大な要素について本書はわりとあっさり流しています。恋仲になった後のガスパーロはそのことについて特に言及すらしていません。実際には、カルロッタを見るたびに去勢される経緯を思い出してちょっとは複雑な気持ちになったりするものじゃないかな……? 最初、私はこの父親同士の賭けが、カルロッタとガスパーロの間にどんな波乱をもたらすのかハラハラしつつ読み進めたのですが、ちょっと拍子抜けでした。

というわけで、個人的な意見を率直に申しますと、私はカストラートという存在に興味があったので本書を読みましたが、特にカストラートに興味の無い人が純粋に小説として読んだ場合に楽しめるか?と考えると、ちょっと難しい気がしないでもない。カストラートとしてのガスパーロの音楽的な手腕と実績は存分に描かれていましたが、一人の青年としてのガスパーロの胸の内をもっと読んでみたかったんですよね。



さて、声楽家としてのガスパーロといえば、彼と共演者たちのエピソードがパンチがあって印象深かったです。

例えば、ソプラノ歌手である彼は、競演する女性歌手に辛辣で「わめきちらすメス犬ですよ」とこき下ろしますし、オペラの舞台に像が登場したときは陰険に笑いながら「あの象が、僕の今日の共演者のうちでもっとも才能のあるライバルでしたよ」と毒舌を吐いたりします。性格悪い(笑)。

ガスパーロが初舞台を踏んだ時の、相手役のテノールの男性歌手とのエピソードは、少年漫画味があって良かったです。最初、テノール歌手は露骨に若輩のガスパーロを侮りますが、ガスパーロは舞台の最中にその実力を堂々と見せつけ、拍手喝采を浴びます。テノール歌手は、ガスパーロを一人のオペラ歌手として認めて、その瞬間から真の意味での共演が始まったのでした。舞台で上演中の歌手たちの人間模様は面白いです。


ちなみに、ガスパーロの舞台の上での傲慢な振る舞いの幾つかには元ネタがあり、この作家さんが全て一から作ったエピソードという訳ではないようです。訳者によれば、ガスパーロは19世紀に実在したカストラートのカファリエッロ(個人的にはカッファレッリという表記の方が馴染みが深いのですが)をモデルにしているそうです。実際、幾つかの作中のガスパーロの体験はカッファレッリが実際に体験したことそのまんまなのですよね。私が気付いたのは、インド象と共演したり、さる公爵夫人と恋仲になってボディガードをつけられたり、などのエピソードです。

ガスパーロは、自分の喉の調子の都合でオペラの第二幕と第三幕の順序を入れ替えさせるなんて勝手なことを作中でやっていますが、もしかしてこれも元ネタあるんじゃないでしょうか?

私は、作者が当時のカストラートについてよく調べていることよりも、むしろ創作物のキャラクターとして通用するようなエピソード持ちのカッファレッリに感心しましたね。カッファレッリ、面白い人だったんだなー。



それにしても、本書で不思議なのが、カルロッタの恋のライバルがことごとく男性であること。なんでだろう?。いや、いいんですけどね(笑)。

ガスパーロは、弟子の青年に心惹かれます。また、カルロッタの夫である公爵も、ヴァイオリンが得意な従僕を男色相手として可愛がっていることをほのめかす描写があります。さらに別のシチリア人の青年に恋に落ちてその胸の内を主人公に訴えたりもします。浮気相手の素晴らしさを妻に熱弁する夫、それをふんふんと聞いてあげる妻、なんという夫婦関係だよ、と思わずツッコミたくなった読者は私だけではないはず(笑)。まぁ、当時の貴族の家族関係なんてそんなものかもしれませんが。

いや、でも男児を産めないことにプレッシャーを感じている妻にとって夫の浮気相手が女性だったら泥沼な展開になる、と判断して著者は避けたのかな。同性相手の浮気や心移りを殊更に軽々しいものとして扱うもそれはそれでどうなんかなぁと思わないでもないですが……。

ちなみにそれ以外にも同性愛描写はあって、女装したソプラニスタにご執心なオランダ人貴族の男性なども脇役として登場していました。これはオランダ人である著者の遊び心でしょうか。



余談。ナポリという街の名前は、セイレーンに由来しているという話を本書で初めて知りました。カストラートが活躍した街にぴったりだなぁとその偶然の妙に感心しました。



最後に、翻訳文について。私は少々読みにくいという印象を受けました。が、そもそもオランダ語の原文自体がわりと読みにくい文章なのかもしれないという気もします。