sorachinoのブログ

BLやラノベ、少女漫画、ロマンス小説、ミステリ小説等のジャンルごった煮読書感想ブログ。お気に入り作品には★タグをつけています。ネタバレ多数、ご注意ください。コメント大歓迎です。月一更新を目指し、毎月15日0時更新予定。

大岡信 『私の万葉集 一~二』

私の万葉集〈1〉 (講談社現代新書)

私の万葉集〈1〉 (講談社現代新書)

私の万葉集〈2〉 (講談社現代新書)

私の万葉集〈2〉 (講談社現代新書)


この『私の万葉集』というシリーズは、「折々のうた」でも有名な文学研究者である著者が、万葉集から秀歌を「つまみ食い」し、それらについて現代語訳と背景の説明を加え鑑賞と読解を行っていくというもの。一巻では万葉集の巻一から巻四まで、二巻では万葉集巻ニの補遺と巻五から巻七までを取り扱っています。


二巻のあとがきに、

これはまあ、万葉集に対する友情披瀝の本、あるいは相聞歌であると言ってもいいのですが、してみれば、ずいぶんたくさんの恋文を書かせる歌集ではないかとあらためて感心します。

と書かれているのですが、本書が著者による万葉集への相聞歌とは、なかなか素敵な言い回しだなぁ。


お気に入りの歌

一つ一つの歌に丁寧な解説や現代語訳が入っているので、読者である私も一つ一つじっくりと楽しめました。以下は、特に面白いな、いい歌だな、好きだなと思った歌についての感想です。

籠もよ

万葉集の一番最初の歌。雄略天皇が春の野で娘に求婚する歌として有名ですね。

籠(こ)もよ み籠もち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に菜摘ます児 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも


 籠よ、きれいな籠を持ち、竹べらよ、使い易い竹べらを持ち、この岡で菜をお摘みの娘さん。どこの家の娘さんか教えてください。名を聞かせて下さい。ソラミツ大和の国は、ことごとくこの私が治める国、すみずみまで、この私が統べておいでの国。私こそまず告げましょう、家をも名をも。

権力を嵩にきて傲慢といえば傲慢なのですが、この歌、実は結構好きです。男性的な堂々とした求婚の歌なので。春の野辺での若菜摘みというシチュエーションも2人の初々しさや若々しさ、この歌の爽やかさというものを象徴していていいなぁ。そして何よりもいいのが終り方の絶妙さだと思います。この後、乙女は求婚を受け入れたのか?乙女の名前はなんというのか?と想像力を掻き立てられるんですよね。まー、ちょっとこの感想はロマンティックラブ・イデオロギーが強すぎるかもしれませんが(笑)

ちなみに「我こそば 告らめ 家をも名をも」の解釈には二通りあるそうです。「私にこそは告げてください、家も名も」という風に解釈している他の書籍も読んだことがあります。学術的な分析はおいておくとして、文学的に見たときの個人的な好みからいえば「私こそまず告げましょう」の方の説を採りたいな。なのでこの大岡信さんの現代語訳は好きです。

乙女の名前を知るために、「教えて教えて」と押すだけではなく、自ら率先して名乗ることによって相手にプレッシャーをかけ名乗らせようとする戦略に出た、とみたい。それは同時に、「名」という自らの内実を先んじて晒すことによって、もっと自分を知ってほしい、自分の魅力気付いて欲しい、という恋する者の願望なのではないでしょうか。

否と言へど

持統天皇とみられる天皇と、それに仕える志斐嫗(しひのおみな)の二首。

否と言へど 強(し)ふる志斐のが 強(し)ひ語り このころ聞かずて 朕(あれ)恋ひにけり


 いやよ、聴きたくない、と言っているのに、聴け聴けと強いる志斐おばさんの強(し)い話、このごろ聞かないので、私はなんだか淋しいよ

否と言へど 語れ語れと 詔(の)らせこそ 志斐いは奏(まを)せ 強(し)ひ語りと言ふ
 
 いやですわ、そんなご命令は困ります、と申し上げているのに、陛下が話せ話せとお命じなので、志斐めは仕方なしにお話し申しているのですよ。それをまあ、私が強い話をするからですって?

大岡信さんの現代語訳、上手いなー。親しい仲だからこその軽口と、言葉遊びが表れていて、とても微笑ましい歌です。そして古代人のコミュニケーションの取り方の一端も窺えて興味深い。歌の内容からして即興性の高いもののように思うのですが、こういうのをさらっと作っちゃう人がいたとしたら凄い才能だな。

最近、権力者と芸能者の関係に凄く興味があり、古代日本の宮廷歌人や乞食者についての文献、また中世ヨーロッパの吟遊詩人についての文献などをちょうど読んでいるときだったので、この2首には余計心をひかれました。志斐嫗は宮廷に仕える語り部だったのかな?一体彼女の語る話とはどんなものだったのか?稗田阿礼女性説というのもあるそうですが(そしてそれを私はあまり信じてはいませんが)、物語る女性の存在というのは面白いです。男性の語り部とは何か違いがあるのでしょうか。

言問はぬ

葉集巻六より、市原王(いちはらのおおきみ)が一人っ子の寂しさを詠んだ歌。

言問はぬ 木すら妹(いも)と兄(せ)と ありというふを ただ独り子に あるが苦しさ


 物言わぬ木にさえ、妹も兄もあると聞くのに、私だけが独りっ子であるのは、とても辛い。

一人っ子の寂しさを歌うなんて面白い!

大岡信さんの「この感慨は市原王にとって切実であり、身にしみるものだった」という解説を読んで、私はこの歌が作られたときの作者の年齢が気になりました。自分も兄弟が欲しいという思いって、子供の頃と親が老いたり死んだ時が殊に強いのではと考えるからなのですが、そこのところ如何でしょうか、一人っ子の方。私自身は一人っ子ではないのですが、年が離れているため幼い頃は一緒に遊んだ経験は少ないです。友達が年の近い兄弟姉妹と遊んでいるのを見ていいなぁと羨ましく思ったこともあります。そして、親の老いや死に直面したら、きっと悲しみを共有出来る兄弟姉妹という存在は殊更ありがたいものなのではないかな、とも思う。

市原王が常日頃から一人っ子の寂しさを抱いていたとしても、一体どのような機会にこの思いを歌にしようと改めて思い立ったのだろうか。例えば作者の周囲にいる兄弟姉妹が仲良さそうにしている姿を見てなど、何かきっかけがあったのもしれませんね。

それにしても当時の兄弟姉妹の数ってどれくらいが平均だったのだろうか?


道の辺の

万葉集巻七より、勢いよく男性を突っぱねる女性の歌。詠み人知らず。

道の辺(へ)の 草深百合の 花笑みに 笑みしがからに 妻と言ふべしや


 道ばたの草の繁みに咲いている百合のように、この私が花笑みに頬笑んであなたを見たからといって、それであなたの妻だなんて、とんでもない。

「でれでれしないでよ。誰があんたみたいな男の妻になるもんですか」という砕けた訳も載っていました。

まず、「草深百合(くさぶかゆり)」や「花笑(はなえ)み」という美しい言葉に眼が留まりました。「花笑み」とは、咲く花のように美しく華やかな笑顔を言うそうですが、綺麗だなー。そんな素敵な笑顔を浮かべたいものです。とはいえ、この歌を贈られた男性から見れば、そんな花笑みというのは罪作りなものだったのでしょう。

よく見てみると歌意も本当に面白い歌だなー。作者の女性は、きっととても可愛らしくて魅力的な人だったのでしょうね。自分を花に喩えているあたりが女としての自負心やプライドをうかがわせています。

この歌のように歌われた当時の状況をつい想像したくなるものって凄く好きなのです。
この後、突っぱねられた相手の男性は何て答えたのか?「よく言うよ、結婚したいって言ったのはそっちだろ」などとやりこめるのか。それとも求婚を断られてしょんぼりしつつ帰って行ったのか。はたまた即座に上手い言い回しの口説きの歌を返せば、あらこの人結構やるじゃないの、と女性も男性を見直す気になったりして…等いろいろ妄想を掻き立てられました。

西の市に

万葉集巻七より、詠み人知らず

西の市に ただひとり出でて 目並べず 買いてし絹の 商(あき)じこりかも


 西の市にただ一人で出かけ、他人の目を並べて見ることをしないで買ってきた絹は、ああ商いの仕損じだったよ

本書では他人の意見も聞かず手に入れた女がくわせものだったと嘆く男の歌であるという可能性も紹介されていましたが、私も大岡さんの意見に同意で、素直に「物々交換の市で不良品をつかまされ、口惜しがっている人物」という解釈の方を取りたいです。

不良品をつかまされたやるせなさって現代でも充分に通用する感情ですよね。私も先日1つ600円の美味しいと評判のクレープ(私の中でクレープにこの値段は高いという認識がある)をワクワクしながら食べたのですが、それがとんでもなく不味くて金返せ!と言いたくなる経験をしました。なのでこの作者の気持ちがわかる、と読んでいて思ってしまった。

私はこの歌の作者と似たような理由から同じような感情を抱いたけれど、これを歌にしようという発想は生まれなかった。けれどこの作者は歌にするという手段を知っていて実際に作った。この人にとって歌を作ることと生活が結びついていたのだろうな。

そして、暮らしの中の些細な感情を歌という形で万葉集に残してあって、それが1000年以上も後の現代の読者に共感を呼んでいるという事実こそ面白いと思う。人を恋う歌だとか自然の美しさに驚嘆する歌だとか人生の無常を嘆く歌だとか、そういった数々の歌はよく見かけますが、この歌のような生活の中の経済的な面に関する歌は珍しい。

ところで、作者未詳とのことですが絹を手に入れているということは、この作者は結構身分が良かったのかな?


歴史を語る歌集

万葉集って歴史を語っている歌集なんだ、という印象をこの本を読んで強く持つようになりました。天智天皇が歌った大和三山の争いの歌、天武天皇額田王の蒲生野の歌、天智天皇が六人の皇子に兄弟盟約を誓わせたときに詠んだ歌、大津皇子と大伯皇女の歌、石川郎女と大津の皇子と草壁皇子の恋歌など、とても壬申の乱大化の改新などの歴史上の事件との連動を感じさせます。

もちろん、実際には後世の人間が有名な人物に仮託して創作した虚構の歌であったり、流行歌や民謡が有名な人物の歌ったものとして伝えられるようになった可能性もあるんのですが、こういう歌が万葉集に残っているために、それらの事件は人々の記憶の中でよりドラマチックに、そして歌を通してより事件の当事者の内面に迫ることが可能になっています。本当にその人の作品か否かを問わず、やはり万葉集で編集された有名な人物達の歌は、歴史に豊かなエピソードを提供してくれていますね。

この時代に詳しくなかった私ですが、万葉集に残されている彼らの歌の力強さや魅力を知るうちに、日本の古代史にも興味が出てきて、壬申の乱大化の改新の前後の詳しい人間関係を知りたくなりましたよ。思わず本文を参考に系図を描いたり、参考資料を集めてみたり。


その他

余談になりますが、序で万葉集を通読することの困難さに言及されていて、思わず深く頷きたくなりました。

四千五百首の長歌や短歌を通読するのは、案外大変なことだと思います。たかが文庫本二冊程度。しかし、~略~単に量の問題として論じるだけではすまない困難さがあるのです。

 これ、凄くわかります!私も学生時代に大量の和歌を通読しなくてはならないことに直面した経験があるのですが、そのときは数十首を読むだけで物凄く疲れて遅々として進みませんでした。続けざまに和歌や短歌を鑑賞するのって、とてもエネルギーを使うのものなんだ、としみじみ思いましたよ。研究者の方でも似たようなこと考えるんだなぁ、ちょっと親近感が…。


まとめ

とても面白いし、勉強になる本でした。上記の歌の他、柿本人麻呂の「石見の海 角の浦廻を 浦なしと~」で始まる長歌や、「天の海 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」などの魅力を再発見できたりと、本書はとても収穫の多かった本でした。『私の万葉集』シリーズ、やっぱり面白いな。

松岡なつき 『H・Kドラグネット』全4巻

H・Kドラグネット1 H・Kドラグネット (キャラ文庫)

H・Kドラグネット1 H・Kドラグネット (キャラ文庫)

H・Kドラグネット2 H・Kドラグネット (キャラ文庫)

H・Kドラグネット2 H・Kドラグネット (キャラ文庫)

H・Kドラグネット3 H・Kドラグネット (キャラ文庫)

H・Kドラグネット3 H・Kドラグネット (キャラ文庫)

H・Kドラグネット4 H・Kドラグネット (キャラ文庫)

H・Kドラグネット4 H・Kドラグネット (キャラ文庫)

香港を舞台にしたBL小説です。

私が『H・Kドラグネット』を初めて読んだのはかなり昔の話で、当時はまだ旧装版(1995年~2000年、青磁ビブロス刊行)でした。その後、2011年にキャラ文庫から新装版(↑の書影はこの新装版です)で復刻され、その時は懐かしさから即購入しました。

そして昨年、香港旅行に行ったのを機に全4巻を改めて再読したわけですが、何度読んでもその度に面白いなと思える作品です。


あらすじ

君は、今日から香港マフィアの巨大組織「開心」の後継者候補だ———。ケンカっ早くて気は強いけど、ごく平凡な高校生・伊庭隆之に訪れた激変の運命。それは、莫大な財産を相続する代わりに、敵対組織に殺された父の仇を討つこと!! しかも、同い年の義兄アーサーと「香主」の座を争う羽目に……!?血で血を洗う香港黒社会に生きる男達の、恋と劇場を鮮烈に描くピカレスクラブロマン開幕!!

1990年代の香港マフィアの世界を描いた本作では、2つのカップルが登場します。


1つ目が、組織の跡目を争う同い年の異母兄弟。

  • 攻め:伊庭隆之(李隆之、マーク李)(17)
  • 受け:アーサー李(李冠麟)(17)


2つ目が、ともに二十代後半の組織の幹部同士。

  • 攻め:ジェイソン林(林凱龍)
  • 受け:クレイグ華(華詠夏)


引用した1巻のあらすじだけだと隆之メインの物語のように見えますが、実際にはこの4人がメインキャラクターです。ともすれば年少組よりも年長組の方の描写に作家さんの力がより込められている感さえあります。


返還前後の香港というグッとくる舞台設定

本シリーズの1巻冒頭は、桜咲く春の日本から始まります。香港返還前の時期であることは、隆之たちの家を訪れた香港マフィアたちの言葉からわかります。

その後すぐに物語の舞台は香港に移り、基本的にストーリーは香港各地で進んでいきます。尖沙咀(チムサアチョイ)、佐敦(ジョーダン)、旺角(モンコック)、中環(セントラル)など、実際に自分が香港旅行中に訪れた土地が文中に出てきて思わず嬉しくなりました。

さらに、2巻では深圳の経済特区が登場したり、3巻前半ではイギリスはロンドンに飛び、そして4巻はマカオ絡みのエピソードとなっていたりと物語世界の地理的な奥行きも感じられて楽しかったです。

エネルギッシュでゴージャスで派手でパワフルな、香港という舞台とそこに住んでいるキャラクターを、本書はとても魅力的に書いています。

なお、1巻冒頭から4巻冒頭までの間に1997年12月20日の香港返還が実施されているはずですが、残念ながらこのシリーズでは香港返還というビッグイベントの当日をリアルタイムで感じられるようなエピソードは挿入されていません。これに関しては、せっかく1990年代後半の返還前後の香港が舞台なんだからそのものズバリのエピソードを書いてくれれば良かったのに、と少しもったいないような……。中国大陸から亡命者の親とともに泳いで海を渡り孤児となったジェイソンは、どんな思いで香港の中国返還当日を迎えたのか等、読んでみたかった気がします。

一方で、1999年12月20日マカオ返還式典の生中継を主要キャラ4人でリアルタイムでテレビ視聴する場面が4巻にはあり、こういう歴史的な出来事をBL作品の中で読めるのは面白かったです。


商業のBL作品って、わりと他のジャンルの創作物に比べても舞台となる土地をぼかしたり、時代背景を匂わせない書き方・描き方がされる傾向にある気がします。けれど、個人的にはしっかり地名や時代背景が描かれている方が好みです。ぼかすことが作品のクオリティを明確に上げるというならともかく、そうでないなら潔く書いてほしい、という気になるんですよ。

そんな私にとって、松岡なつきさんの何が良いって、代表作の『FLESH&BLOOD』しかり、『センター・コート』しかり、本作しかり、外国設定や歴史物設定など現代日本以外の実在の土地を舞台にした作品を明確にして書いてくれる果敢さなんですよね。膨大な調べ物が必要になるでしょうし、あえてその労力を引き受けて書いてくれる心意気が嬉しいじゃないですか。

1巻あとがきで、松岡さんは作中にも登場させた香港の「リージェントホテル」への愛を語っていますが、ご本人がきっと海外や世界史をとても好きな方なんでしょうね。

大物親分の血を引いていた主人公が突然組織の跡目を継ぐ破目になるという展開は、BLに限らず多くのヤクザやマフィアをテーマとする漫画や小説で見かける王道パターンであり、正直これだけだったら目新しさはほとんどありません。しかし、BL的な萌えも濡れ場も存分に入れてエンターテイメントに徹しつつ、同時に現地の空気感や時代背景なども下調べした上でしっかり書こうという作家さんの意識や香港を好きな気持ちが伝わってくるのが本作の良いところだと思います。


スケールの大きな派手なストーリー展開

豪奢な高級ホテル、煌びやかなナイトクラブ、執事やメイドが働くお屋敷、カジノ、クルーズ船、とゴージャスな場所も頻繁に登場する本作。

斬った張ったの香港マフィアの世界を描く作品ですから当然なのでしょうが、爆破やら銃撃戦やらもド派手です。スケールの大きな激しい抗争が何度も描かれ、敵も味方もどんどん死んでいきます。メイン4人も命がけでそれぞれの立場から動きますので、ハラハラドキドキ、スリルもたっぷり味わえます。陰謀もあり、特に裏切り者に脅迫されたクレイグが徐々に言いなりになってしまう過程がリアルで怖かった……。

ラストまで読むと「ええええええ、この人まで死んじゃうの!?」とびっくりする読者も多いことでしょう。このあたりの容赦なさは、少し古き良きJUNEの香りがしますね。私も初めて読んだときは4巻ラストにはマジか!!と驚きつつ、かなり落ち込みましたよ。

1巻冒頭の時点で既に故人になっていますが、作中、死してなお周囲の人物たちに大きな影響力を発揮しているカリスマ的な香港マフィアであり、隆之とアーサーの父親でもあったレオン李の存在感が凄かったです。香港ノワール映画なら、レオン李が主人公だったことでしょう。



隆之とアーサーが可愛い

隆之とアーサー、ジェイソンとクレイグ、という2組のカップルが登場する本作。全四巻通して読みごたえがあって読者人気も高いのは年長組だと思いますが、私はどちらかというと年少組の方が応援したくなって好きですね。ラブラブな二人が可愛いし、隆之のピュアさにアーサーが癒されているのがツボです。

隆之はそんなアーサーの腰に腕を回し、ぴったりと身を寄せた。
「俺、こうしておまえに触っているのが好き」
アーサーは呆れたように隆之を振り返る。そして、そこに一点の曇りもなく、自分を信じ切っている隆之の瞳を見つけて、心の中で苦笑した。
(飼ったことはないけれど……犬みたいなやつだな。それも大きな真っ白い犬って感じ)
隆之は明るくアーサーに笑いかけながら聞く。
「アーサーは?俺に触られるの好き?」
嫌いだ、などと言ったらどうなることだろうとアーサーは思う。
(本当にこいつは無防備で……僕に傷つけられるかもしれないなんて、これっぽっちも考えやしないんだから……)
だが、アーサーはそんな馬鹿な隆之が可愛いのだ。

年下わんこ攻めの隆之、可愛いなー。天邪鬼で屈折してて冷酷で面倒くさい性格のアーサーには、隆之くらい真っ直ぐな人間が合ってますね。

そういえば私、同作者の『センター・コート』でも、攻めが受けのピュアさゆえの無防備な強さにグッとくるシーンが凄く好きなのでした。松岡さんが書くこういう関係性のカップル、萌えるんだよなぁ。

黒社会で生きる人間としては隆之は健全すぎますし、実際全4巻のうち物語が進むとどんどん影が薄くなってしまって、頭角を現した伊良にとって代わられてる感がない訳でもないんですが、でもアーサーにはそんな圧倒的に陽属性な隆之が必要なのでしょう。


余談

香港旅行に行って

旅行に行くとその土地を舞台にした小説や漫画を読みたくなります。

香港らしさが随所に出てくる本作は旅行後に再読したら一段と楽しく読めましたが、本書が書かれた1990年代後半の香港と2018年の香港とではざっと20年ほどのタイムラグがありますから、作者が描いた当時の街の様子と私が体験した街の感じは違っているのかもしれませんね。ちょうどこの20年という月日は「香港の中国化」が進んだ時期でもあり、上海を筆頭に中国経済が成長するにつれて香港の優位性が弱まってきた時期でもありました。それでも、やっぱり現在でも魅力的な土地です、香港は。また旅行で訪れたいし、香港を舞台にしたBL作品もどんどん出版されてほしいです。

それにしても、「香港」で思い出したのがこの松岡なつきさんの『H・Kドラグネット』、一穂ミチさんの『is in you』、狩野あざみさんの『亜州黄龍伝奇』の3作品でした。3作中2作がBL小説って、つくづく私の読書傾向、ジャンルが偏ってますね(笑)

行く末が心配すぎる

4巻ラストの衝撃の展開を踏まえ、本編終了以降の開心の行く末を考えてしまうんですが、ぶっちゃけヤバくないですか!? 1巻の初めの頃から考えると有力幹部が根こそぎいなくなっているし、残ったのは年若い者たちばかりで黒社会の男たちをちゃんと纏められるのか……!? いくら伊良が見所のあるやつだと言っても、トップ3が若造ばかりで敵対組織の四刀やら中国色を強める香港政府やら相手に苦戦しないわけがない。組織の弱体化は否めないんじゃないかなぁ。

開心だけでなく、アーサーと隆之自体も本当に黒社会でやっていけるのか、とても心配ですよ。ちゃんと香主とその身内としての地位と威厳と経済的基盤を保ちつつ暮らしていけるのか。

それに、このままアーサーが香主の地位を保ったまま数十年経過できたとして、次代への引継ぎはどうするつもりなんだろう。アーサーは隆之を他の人間とシェアするなんて死んでも許さないだろうから、隆之は一生独身でアーサーへ愛を捧げ続けるでしょう。アーサーは、隆之との関係を続けたまま、割り切って女性と結婚して次代の跡取りをもうけるくらいはするかしら。いやー、でもやっぱり意に沿わない結婚はしないかもなー、独身のまま見所のある若者を養子にして跡目にするとか?

となると、二人に女の影が見えないことに不信を覚えてニッキー葵みたいに二人の関係を嗅ぎつける輩も出てきそうで、うーん前途が心配すぎる。クレイグでさえニッキー葵にしてやられたんだぞ、大丈夫か。切実に、二人の関係に理解を示してくれて信頼できる敏腕な実務家が味方に欲しいですね。

ぜひとも、アーサーと隆之には幸せになって欲しいのです。二人とも頑張れ~!!


スマホのない世界

2000年以前に書かれた作品ですから当然ですが、本作にはスマホが一切出てきません。もし、作中にスマホが出てきたり色々な便利なアプリが登場していたら多少ストーリーも変わっていたかなぁなどと考えてしまいました。


まとめ

ゴージャスでデンジャラスな香港黒社会のBLでした。面白かったです。


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服部まゆみ 『一八八八 切り裂きジャック』

一八八八 切り裂きジャック (クイーンの13)

一八八八 切り裂きジャック (クイーンの13)


この小説は1888年にロンドンで実際に起こった切り裂きジャック事件を題材に物語が進んでいくミステリ小説です。切り裂きジャック事件について興味があったので読んでみました。

いや~面白かった!!


あらすじ

 大正十二年、還暦を迎えた作家の柏木老人の回想から物語は始まる。


 35年前の1888年、当時25歳だった日本人男性の柏木薫(かしわぎかおる)は、文部省派遣の国費留学生として、ベルリンに渡り解剖学を専攻していた。しかし彼は、親友の鷹原惟光(たかはらこれみつ)から聞いたエレファント・マンの話に心惹かれ、留学先のベルリンから海を渡りロンドンへとやってきた。ロンドンに滞在していた鷹原の下宿に部屋を借り、エレファント・マンことジョーゼフ・ケアリー・メリックに会いにイースト・エンドにある王立ロンドン病院を訪ねる柏木。


その頃、イーストエンドのホワイトチャペル地区では連続娼婦殺人事件が発生していた。日本の警視庁からスコット・ランドヤードに派遣されている鷹原は事件の調査を始め、一方ロンドン病院に落ち着きジョーゼフ・メリックの主治医であるトリーヴス医師に師事することになった柏木も事件に巻き込まれていくのだが…!?というお話。


ヴィクトリア朝と道徳

本書が切り裂きジャック事件とエレファント・マンという二つの要素を真っ向からぶつけた作品であることの意味を、最初はちょうどどちらもヴィクトリア朝の出来事及び人物であり、ロンドンのイーストエンドということで、時代的にも地理的にも重なっているからなのかなと単純に考えていました。
 
けれど、やはりそれだけではないのでしょうね。

切り裂きジャックエレファント・マンに共通しているのは、この両者を巡る周囲の人々の道徳が剥がれ落ちてしまったことにあるように思います。これは、ヴィクトリア朝という時代をとてもよく表している出来事なのだろう、と思う。

ヴィクトリア朝は、“勤勉”や“性の隠微”、“良識”など厳格な道徳が規範として機能し、中流階級は理想的な紳士や淑女というものを目指していた時代だといわれています。

けれども同時に、その厳格な道徳観は抑圧的であり偽善的でもあったということもよく指摘されているんだとか。この“偽善的”という矛盾が、切り裂きジャック事件への周囲の反応とエレファントマンへの周囲の反応に共通しているものなのかもしれません。

「[略]芝居や物語の中の殺人鬼よりももっと恐ろしい怪物が、現実に跋扈している……このロンドンで……自分と同じ空気を吸い、ひょっとしたら道ですれ違ったかもしれない……客席から突然舞台に上げられたような恐れと困惑、それにぞくぞくするような興奮を味わっているんだ。退屈な日常生活に突然照明が当てられ、音楽がなる。役者が客席に下りたのか、自分が舞台に上がったのか……とにかく、このロンドンでとんでもないことが起き、そして自分はここに住んでいる……新聞を見る度に、雑誌を見る度に、その興奮を味わうんだ[略]」

このように『一八八八 切り裂きジャック』では、センセーショナルで猟奇的な事件に対する好奇心と興奮からこぞって新聞を買い大騒ぎする市民の姿が描かれています。彼らは、売春婦という自分達より明らかに下の階層の女性たちが被害者となっていることによって、立派な市民の自分は襲われることはないと安全圏から劇場型の元祖とまで言われるこの事件を“楽しむ”ことができました。

同時に、ジョゼフ・メリックに先を争って見舞い、施しを与えようとする上流階級の人々の姿も描かれています。主人公の柏木薫も、自分がエレファントマンに会いにロンドンへ来たのはエレファントマンの畸形を目にすることによって心の平安を得ようとするためだったのではないか、と自らの態度を批判的に内省しています。

だからこそ、この二つを中心にヴィクトリア朝の風俗を描き当時の実在の人物を大量に登場させた本書は、その構成の絶妙さに感心しましたし、とても面白かったです。本当にいいところに目をつけたな、と思う。


ヴィクトリア朝の実在の登場人物たち

この小説は、ヴィクトリア朝の雰囲気と風俗を存分に味わえる作品となっています。何しろ主人公の語り手が日本からの留学生なので、外部からの旅行者の視点で当時のイギリス社会を描写しており、読者も彼が見聞きすることをまるで一緒に体験しているかのような気分になれるのです。プチ旅行感覚。しかもタイムスリップというおまけつき。

というわけで、きっと事前にある程度の知識(切り裂きジャック事件やエレファント・マン、イギリス文学、ヴィクトリア朝の文化人についてなど)があったほうが面白く読めるだろうなぁと思います。

人によっては切り裂きジャック事件やイギリス文化に何の興味も持たずに読むと、登場人物の多さと、長さに疲れてしまうかも。というか、数年前の私がそうでした。もともと日本史畑の人間なのでイギリス文化史にはさっぱり無知で、次々と登場する見知らぬ横文字の名前に対応しきれず、そのときは途中で脱落しています。

再度この本に挑戦した今回、長かったけれど一気に読めたのは、事前に切り裂きジャック事件に関する本を数冊読んでいたせいか、登場人物達に親しみを持てたおかげだと思います。

例えば、バーネット*1を犯人と考えるブルース・ペイリーの『切り裂きジャックの真相』を読んだ後だったので、ジョゼフ・バーネットが登場するシーンはちょっと嬉しかった。

こういう歴史上の実在の人物(とはいえバーネットは無名の人物に近いですが)が、きちんと血の通った人間として文章の中で動いたり喋ったりしているのは、研究書や学術論文には無い楽しみであって、小説を読むことの特権ですよね。


あと、アバリーン警部*2とジョージ・ゴドリー巡査部長が登場していて、ついつい映画『フロム・ヘル*3ジョニー・デップ演じるアバーライン警部やゴッドリー巡査部長のヴィジュアルで想像してしまったり。 


その他、例えばヴァージニア・ウルフ北里柴三郎森林太郎谷崎潤一郎西園寺公望、石川小五郎(河瀬真孝または河瀬安四郎)、ベルリン大学のライヘルト教授、ヘンリー・ライダー・ハガード*4、フィリップ・ツー・オイレンブルク*5、シメオン・ソロモン*6をはじめとして文化史や政治史、科学史における有名人物が数多く登場しています。


まぁヴァージニア・ウルフくらいは流石に知っていましたが、マダム・ブラヴァッキーは知らなかったので彼女が登場する場面では、元ネタがわかっていれば絶対にもっと登場を楽しめただろうなと、もどかしい思いもしました。あと、バーナード・ショーの周辺の人物としてウィリアム・モリスがちらっと出てきたときは、あれ、ウィリアム・モリスって聞いたことあるな、誰だっけ、そういえば大学のイギリス文化の授業中に習った壁紙やら書籍の装丁で有名な人じゃなかったっけ?とうろ覚えの知識を総動員して読んだり…。こんな風に、この作品を読んでるとついヴィクトリア朝への興味や関心が高まってしまいました。

名前の付いた登場人物は百名以上。一応、巡査から子供に至るまで、実在の人物です。その中に七人ほど、架空の人物を織り込みました。また、日時とは結びつかない日時のはっきりとした史実で、二つほど嘘も入れました。マニアックな読者の方、お解かりになりますか?

と、あとがきに書かれていましたが、もちろんマニアックな読者ではないのでわからなかったです…。でもこういうの全部わかったらとても楽しいだろうなぁ。七人の架空の人物は誰なんでしょうね?とりあえず柏木薫と鷹原惟光で二人かな?


キャラクターと文学ネタ

本書は、切り裂きジャック事件の犯人を推理するミステリ的な楽しみだけではなく、作中に散りばめられている文学ネタを楽しむという楽しみ方もあると思います。

例えば、探偵役を務める鷹原というキャラクター。彼のモデルは、明らかに源氏物語光源氏です。そのせいか、どれだけスーパーマンなんですかとツッコミを入れたくなるくらい凄まじい出来すぎ人間でした。男も見とれるほどの類まれな美青年で、伯爵家の長男で、社交性が高く身分を問わず持て囃されて皇太子にも王子にも好かれる性質で、広い知識と鋭い知性を持ち、度胸もあって、体も頑丈で、上品で、でも暗い出生の秘密を抱えていて……。しかも老人になってからも

月を背に、老いても美しい顔が笑っていた。

とまで描写されているんですから、もはやここまでくると天晴れ!な感じもしないでもない。超人ぶりにうんざりする読者もいるのではとは思いますが、私は光源氏をモデルにしているんならこれほど非現実的なまでの超人ぶりもむべなるかなと、つい納得してしまいました。ちなみに小説論について柏木と鷹原が意見を交わす場面で源氏物語について触れていたり、キャラクターの名前も「惟光」「柏木」「薫」など源氏物語から取ったと見える名前をつけていたりと、源氏物語ネタは幾つか見受けられます。

それにしても鷹原って髭あるんだ!びっくり!あまりにも「美青年」と強調されるので、なんとなくつるりとした顔なのかと思ってましたよ。髭面の美青年かぁ、いや、髭面というとなんか野趣に富みすぎてるイメージですが、彼の場合はチョビ髭の美男子なんですよね。ふむ。


主人公であり語り手である柏木も文学と縁が深いキャラクターです。彼は、結構うじうじした性格で、いろいろと劣等感や自分は何をすべきなのかと進路に関する悩みを抱えていると描かれている。本書はミステリ小説であると同時に彼の成長物語としての側面もあるようで、イギリスで小説というものに出逢い、惹かれ、やがて自らも執筆をはじめたことで、彼は自分の進むべき道を見つけ出します。以下は柏木の台詞です。

「[略]こんなに心踊り、わくわくしたことはないよ。物語というのは素晴らしい。バートンの言葉通り、物語の世界でならすべてが可能だ。自由に心を遊ばせることが出来る。そして、もしも可能なら、僕もそういう物語を作り上げてみたい。僕も人間を……人間の精神を、心を、自由に遊ばせたいんだ。地位や名誉、身分や体面に囚われることなく、すべての僕の本を読んだ人々が、王様から乞食へと、熱砂の砂漠から氷点下の凍てつく世界へと、どんな風にでも遊べる世界を作りたいんだ。[略]」

このあたりの柏木の心境を読んでいたら感慨深かったです。というのも本書が舞台としている1888年当時、まだ日本では言文一致体を模索しはじめていた時期であり、西欧的な小説という文芸の黎明期にあったという状況がよくわかる描写だったので(実際、二葉亭四迷の『浮雲』は1887年つまり明治20年から1889年にかけて発表されたものだそうですし)。現在私の部屋にはたくさんの小説がありますが、あの時代柏木のように近代小説という文芸の魅力に取り付かれた文学者達の努力によって、現在の私は小説という娯楽を得ているんだろうなぁなどと面白く読みました。


そして柏木の語る面白い物語や小説の中の世界が読者を惹きつけて離さない力というものは凄いなと、私も本書を読んでいて感じましたよ。まるで見てきたかのようにヴィクトリア朝の闇と光が交差するロンドンの雰囲気を伝えていて、もちろんどこまでその描写は史学的にリアリティがあるのかは私には判断がつきませんが、それでも本書が充分に‘遊べる’魅力的で厚い物語世界であったことは確かです。


ところで国費留学生というエリートなのでお金の心配はする必要もなく、反面国費留学生だというのに熱心に大学に通って医学の勉強をしなくてもよく、さらに下宿には大家がいるので家事をする必要もなく、刺激と先進技術と文化に満ちた異国で、好きな小説を一日中読んでいてもよいだなんて、随分恵まれたいい生活なのでは。

まぁ、それだけ小説というものには人を耽溺させる魔力があるということを表現しているのでしょう。小説を時間も忘れて読み耽り、物語の世界にどっぷりと浸かることの快楽というのは、本好きの一人としてわかる気がするけれども。


それと文学ネタとしては、大英博物館図書館を訪れる文部官僚の田中稲城の登場も面白かったです。どうやらこの登場人物は、のちに日本の帝国図書館の初代館長になった人物がモデルらしい。また、『アラビアン・ナイト』と聞いて顔を赤らめる良識ある中流階級の奥方とかの小ネタも面白い(当時『アラビアン・ナイト』は今のように子供向けのものではなく破廉恥なものという認識があった)。その他、ヴァージニア・ウルフ谷崎潤一郎森鴎外、ヘンリー・ライダー・ハガード、リチャード・バートンの登場など、作家さんの文学への愛が感じられます。


ミステリとして  以下ネタバレがあります。未読の方はご注意を!

犯人の正体は意外で面白かったです。エレファント・マンが犯人だという珍説はどこかで読んだことがあるような記憶がありますが、本書における切り裂きジャックの犯人が、他の書籍で犯人として名前が挙がっているのは見たことは無いな。著者の一からの想像なのか、それとも他の誰かが彼を犯人とする説を立てていたのだろうか。どちらにしても意表を突かれました。

柏木がジェームズ・ケネス・スティーヴンを疑う一方で、私は王室関係者がかなり登場していることからいわゆる王室関与説に沿った物語を紡いでいくのかと途中までは思っていたのですが、いやはや気持ちよく騙されましたよ。なるほど、そっちか!という感じで。ちなみに、史実との絡みで犯人が逮捕されない理由を描いていたのも良かったと思います。

ただ、鷹原の謎解きの説得力については、う~んどうだろう?という気は若干します。また、本当にあんな程度の脅しでその後の何十年という人生、犯罪を起こさずにあの犯人は生きていけたのかという疑問も。保身と理性で殺人衝動を抑えられるなら、最初から連続殺人なんて犯さないのでは? 

それにしても、連続殺人犯の濡れ衣をかけられて、一週間も隠し部屋に監禁されて(食事と排泄は大丈夫だったのか?)、同性愛関係の相手との諍いに端を発して隠していた女装癖を家族に暴露され、その挙句病院に収容されただなんて、スティーヴンが気の毒すぎる。だって殺人犯と目された人物が、明確な証拠が無く逮捕出来ないため、その代わりに「紅や白粉姿で人目に晒される」という罰によって身を破滅させられるんですよ?なんてえげつない私刑なのよ。ドルイットと柏木のばかー!

舞台にしている時代が時代なのでそれだけ異性装愛好者は迫害されていたということを表現しているのかもしれないけれど、‘成人男性が女装愛好を周囲に暴露されること’と‘連続殺人を犯して逮捕されること’を代替可能な行為として物語が展開するのって、なんか釈然としないというか危うく感じるというか。本書に限らず異性装や同性愛を作家が描くとき、やたら破滅的なもの・退廃的なものとして物語世界で扱っていると、私はもうちょっと慎重に描くかポジティブな要素と絡めて扱ってもいいのでは?と読んでいてヒヤヒヤしてしまうんですが。その作品が好きだと尚更。

まとめ

ヴィクトリア朝への興味と関心を掻き立てられた一書としてとても面白かったです。最初は図書館でハードカバーを借りて読んだのですが、つい手元に欲しくなって文庫版も買ってしまいました。

*1:切り裂きジャック事件の最後の被害者といわれているメアリ・ジェイン・ケリーの交際男性

*2:ハードカバー版ではアバリーン警部補と書いてあったけれど、その後手に入れた文庫版ではアバーライン警部と変更されていました。文庫版で解説を書いているリッパロロジスト仁賀克雄さんの本でもアバーラインでしたし、『フロム・ヘル』でもアバーラインとなっていたので、「Abberline」の日本語訳は「アバーライン」で定着していると考えていいのかもしれません。

*3:切り裂きジャック事件を題材にした映画。

*4:イギリスのファンタジー作家、冒険小説家で、『ソロモン王の洞窟』やその続編群(アラン・クォーターメインもの)を著した。

*5:ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の側近。

*6:イースト・エンド生まれのラファエル前派の画家。

ピーター・キャメロン 『最終目的地』

最終目的地 (新潮クレスト・ブックス)

最終目的地 (新潮クレスト・ブックス)

面白かったです!
人生の次のステップへ進むための希望を抱ける文芸作品でした。

あらすじ

1995年9月。カンザスの大学院で博士課程に在籍しているオマー・ラザキは、三年前に亡くなったウルグアイの小説家ユルス・グントの研究をしていた。大学から研究奨励金を得てユルスの伝記を執筆するには、遺族の公認を得なければならない。オマーは、ユルスの遺族たちが住むウルグアイの田舎の豊かな緑に囲まれた邸宅へ赴いた。

そこに暮らしていたのは、ユルス・グントの未亡人キャロライン、ユルスの愛人アーデン、ユルスとアーデンの幼い娘ポーシャ、ユルスの兄アダム、アダムの恋人ピートである。彼らは豊かで静かで平穏な、そしてどこか倦んだように停滞した時間を過ごしていた。

遺言執行者たちの公認を求めて遠路はるばるオマーがやってきたとこで、じわりと時間は動き出す。新たな恋に落ちる者、あえて屋敷を離れていく者―――。そしてオマー自身の人生もこの南米訪問で岐路に立つことに。それぞれの人生の最終目的地とは?


何気ない会話文

会話文が特徴的な小説だと思います。

まず、分量が多い。もちろん風景描写やみっしりとした内省描写もありますが、劇的な事件が起きる訳でもなく、主要登場人物同士のお喋りが主体となって物語は進んでいきます。その会話の多さから、読み終えたとき上質な会話劇の舞台を見終えたような心地がしました。

会話の内容もさりげなく魅力的です。何気ない言い回し、さらりと出てくる言葉、その端々になんとも言えないお洒落感というかセンスの良さを感じます。軽妙で、上品で、繊細で、どこか知的な感じ。ちなみに私のお気に入りの会話文はこちら(↓)。老紳士アダムが、若い恋人ピートにタイを結んでもらった時に言葉を交わす場面です。

「蝶ネクタイを結んでくれてありがとう。このタイをするとハンサムに見える。昔からのお気に入りでね。一九五五年にベネチアで買ったのだよ。しあわせなときは、美しいものを買うのが大事だ。このタイを見ると」―――アダムは襟元の蝶ネクタイに触れた―――「わしにもしあわせな時代があったことを思い出す」
「どうしてしあわせだったんですか」
「忘れた。そんなこと知るもんか。しあわせだった事実を思い出すだけで十分だ。わしはたしかにしあわせだった。さもなければ、こんなに美しいタイを買うはずがない」

もう一つ、とても些細だけれど好きな会話があります。キャロラインという美しい中年女性が、外食をした後に、滞在している亡妹のアパートメントのエレベーターの中でたまたま一緒になった他の住人と交わした何気ないやりとりです。

キャロラインは、さっき通りがかったレストランの外のテーブルに席を取って、ひとりで夕食をとった。心も体も疲れ果てていたが、鋪道の小さなテーブルに座っていると、気持ちがよかった。通り過ぎる人たちが、彼女にほほえみかけた。食事にあわせてワインを二杯飲み、食後はコーヒーを頼んだ。静かな都会の通りの木の下で、街灯に照らされてただ座っているよろこびを、もっとゆっくり味わいたかったからだ。

夕食の後は犬の散歩に行って、その帰りにプログラムのようなものを持っている女性二名とアパートメントのエレベーターで一緒になります。

「どちらに行ってらしたの?」彼女はプログラムを目で示した。
「ああ、バレエです」
「いかがでした?」
「すてきでした」
エレベーターが停まった。もうひとりの女性がドアを押し開け、「おやすみなさい」と言った。
「おやすみなさい」キャロラインも言った。

気持ちの良い場所でゆったりと食事をとって、犬の世話をして、隣人とこんな何気ない言葉を交わす、これってなんか凄くいいと思いません?日常の中の幸福、というか。

本の表紙の折り返し部分に「この小説のなかの会話は、近年最高のものだ」という書評が引用されているのですが、やはりこの本の会話文に魅力を感じた人は多かったんだろうなと思います。


不思議な家族

ところで、さらりと描かれているけど、グント家の妻妾同居・祖父と孫ほどに歳の離れたゲイカップルって題材、よく考えると結構凄いですよね。ミステリ作家だったらドロドロの人間関係と陰惨な殺人事件を描きたくなるスキャンダラスなシチュエーションでしょう。

しかし作家ピーター・キャメロンの筆にかかると、登場人物はそこそこ仲良く平穏に暮らしています。そこが意外で面白い。

まず、妻妾同居のキャロラインとアーデンについて。キャロラインは、自身でも説明できない憎しみを抱えていると内心をアダムに吐露する場面があり、この現状に苦しみを感じていることがわかります。そんな彼女が、夫の愛人とその娘と一つ屋根の下に暮らすなんてよく同意したなと思いますが、アーデンの儚げで可憐な性質あってのものなのでしょうし、不思議とこの生々しくない優雅な物語世界の中ではそういうのもあるんだろうなと呑み込んでしまえました。ユルス亡き後キャロラインとアーデンは微妙な距離感とバランスの下で、互いにある程度の思いやりと敬意を持ってともに過ごしていたように見えます。そこには不思議な連帯と絆がありました。

一方アダムとピートについても、普通ならヨーロッパ系の裕福な老人とアジアの途上国出身で元セックスワーカーの若者のカップルというとなんだか経済格差と売買春の痛ましさを嗅ぎ取りたくなるものなのではないでしょうか。実際2人の出会いはそういうものに近かったのかもしれませんが、ウルグアイで暮らす彼らにはもはやそういう影はあまり感じません。アダムはピートを伴侶として大事にしており、周囲もピートを単なる愛人ではなくパートナーとして扱っています。忠実にアダムの世話をするピートも、お金のためや義務感だけでアダムと一緒にいるわけではなく、愛ゆえに‘離れたくない’と思っている。しかし自分でも認めていなかった‘ここを出ていきたい’という気持ちをとうとう秘めきれなくなっったとき、アダムが泣くピートを抱きしめて慰めるくだりには、年上らしいアダムの包容力と愛情深さが光っていました。

家族というのは計り知れないもので、ユルス・グントの遺族たちのように、傍からは珍奇で規格外に見えても、実は絆を育んでいることもあるのでしょう。


さて、そんな中でたゆたうように日々を過ごしていた高貴なマダム・キャロライン。オマーの訪れがきっかけとなって、彼女は自分を見つめなおすことになります。自分は何者なのか。ここに留まっているのは正しいことなのか。ここが最終目的地なのか?

そんな彼女ですが、最終章では新たな家族ができたことが明かされています。

キャロラインの夫は、立ち上がって彼女を通した。そして、彼女が席に着くと、身を乗り出して肩にはおったショールを整えてやった。彼女が香水をつけてきたのが、彼にはわかった。彼は体を寄せて香りを吸い込み、彼女のほほにキスをした。

私、この描写とても好きなんです。たった数行の短い文章で、名前さえ明かされていない端役のキャロラインの新しい夫が、いかに彼女を大切にしているのかがわかって。この部分読んでると、なんだか胸がじんわり暖かくなるような気がします。新たな一歩を新たな人とともに新たな土地で歩みだしたキャロライン。彼女が幸せになって良かったなあ。



まとめ

南米ウルグアイの田舎を舞台に、人生の最終目的に向けて、それぞれの登場人物が少しずつ動いていくお話でした。読後感も爽やかで、読むと心地よくな
れる本だと思います。

翻訳も上手かったです。簡素だけど繊細な日本語訳で、翻訳文にありがちな違和感はほとんどなく、かなり読みやすいと感じました。

髙樹のぶ子 『ナポリ 魔の風』

ナポリ 魔の風 (文春文庫)

ナポリ 魔の風 (文春文庫)

恵美子はナポリ滞在中に風変わりな男を紹介された。舞台美術家・ドニ鈴木。250年前のオペラ歌手の生れ変りと称するドニは、妖しく強烈な精気を放っていた。彼の妄言を受け流そうとするも、その魔力に翻弄されてしまう恵美子。やがて恵美子の恋人をも巻き込んだ三角関係は性も時空も超えた官能へと発展する。

髙樹のぶ子さんの小説を読むのは初めてです。カストラートが題材というのに惹かれて読んでみました。

作中に幽霊は出ませんし猟奇的な殺人事件も起きませんが、色々な意味で怖い小説でした……! ホラーかよってくらい私には怖く感じました。



カストラートが題材のストーリーということで、本書を読む前は、華麗な劇場の舞台に立ち歌声の美しさと超絶技巧で観客を驚愕させる栄華の頂点を極めたオペラ歌手が出てくるのかなぁと予想していたんですよ。それこそ、ジェラール・コルビオ監督の映画『カストラート』で描かれたファリネッリのような。

ところが、意外なことに本書に出てくるカストラートはそうではありませんでした。オペラ歌手としては成功しなかった人物なのです。

ピアノ教師の主人公恵美子は、ドニ鈴木と名乗る不思議な男に出会います。彼は、自分の前世は18世紀のナポリに生きたカストラートのドメニコ・ファーゴ(架空の人物)であり、当時裕福な貴族だったサンセベーロ家の当主ライモンド・デ・サングロ(こちらは実在の人物)に召し抱えられていたと主張します。彼は、前世の自分を手記の中でこのように表現しています。

 私の歌手としての才能は、音楽院の中では特別扱いされるほどだったが、舞台に立ってみるとローマやフィレンツェから来た若いカストラートたちに及ばず、相変わらず合唱隊の一人だった。
 少年の声を保ち続けるのに苦労はしなかったが、カファレッリやセネジーノのような、太くて強くてしなやかな声を手に入れるのは、絶望的だった。
 私はそれを悲しく思うのではなく、ライモンドのためだけに歌える幸福を味わっていた。ライモンドは、私が金の卵を産むニワトリでなくなっても、失望しなかった。私の歌声は、彼とサンセベーロ家の人々と、亡くなった家族の魂を慰めるには充分だったし、時折ギャンブルのように他家のカストラートと歌合戦をする場面でも、若い私が負けることは一度もなかったのだから。

ドニ鈴木の前世のドメニコは、王侯貴族のお抱え歌手として主人のためだけに私的な場で歌うことに喜びをおぼえる人、という描き方をされていて、そうかー、そういうカストラートもいたんだったか、劇場で観衆のために歌い持て囃されるオペラ歌手だけがカストラートのキャリアじゃなかったなと思い至りました。ドメニコ・ファーゴはアリアを朗々と歌い上げるパワフルな声量に恵まれなかったようなので、大きなハコよりもこじんまりとした室内楽に適した声質だったのかもしれません。きっと宗教曲とかが似合う清冽な美声だったんだろうなー。

そういえば、実在したカストラートファリネッリ自身も人気絶頂のわりと若い頃(確か30歳前後)にオペラの舞台に立つことは止め、スペイン国王フェリペ5世とその息子フェルナンド6世の専属歌手になったのですよね。フェリぺ5世は、鬱病不眠症音楽療法としてお気に入りの数曲をファリネッリに毎晩寝室で歌わせていたとか。生の極上の美声を毎晩味わうとは、凄まじい贅沢ですね。

ドメニコが、主人ライモンドがパトロンをしている他の芸術家の一人から、

「女はカストラートをちやほやし、愛玩物のように扱い、やがて捨ててしまう。女に愛されようなんて思わないことだよ。カストラートを本当に大切にするのは音楽がわかる男だ」

などとアドバイスを受けるシーンがありますが、うーん、これは単に権力者が男である場合が女のそれより圧倒的に多いというだけだと思いますけど、まぁ何にせよ当時の芸術活動にパトロンは必須なものでしたから、10代で領主ライモンドに見出され寵愛を得たドメニコは幸運でした。

ちなみに、カストラートはオペラで活躍する、王侯貴族の専属歌手になる、以外にも音楽教師になるという道や、教会に属して聖歌隊として歌う、といったキャリアもありますね。作中の人物が、

「ローマではオペラ劇場で歌うカストラートたちより、システィナ礼拝堂の聖歌隊カストラートの方が幸福な目をしていた」

こう言ってますが、これ史実はどうだったんでしょうね? もちろん一概には言えないでしょうけれど、確かにローマ法王カトリック教会は強力なパトロンですし、聖歌隊としての活動に宗教的な意義を見いだせれば精神的にも好影響でしょうし、やはり幸福度は高かったのでしょうか。オペラ歌手は活躍できれば名誉と財産を得られますが、そこまで上り詰められるのは一握りですし、次々と若手が現れて競争も激しく、人気商売は色々と苦労も多かったろうと思います。浮き沈みのあるオペラ歌手よりも、安定した聖歌隊士の方が性に合っているカストラートもいたことでしょう。

本書のドメニコ・ファーゴはボローニャでの去勢手術から無事生還し、ナポリの音楽院で最高の教育を受け、貴族のお抱え歌手となれるくらいには音楽的才能にも恵まれ、雇用主のライモンドと良好な関係を長期間にわたって築き(時には寝所に呼ばれて男色の相手になるほど)、その間ずっとライモンドの館で暮らしました。去勢手術が原因で亡くなったり、また手術に成功しても音楽的才能に乏しく音楽の道を歩めなかった少年が大勢いたことも考えれば、彼はかなり幸運です。決して悲惨な境遇だったわけではありません。

しかし、去勢の代償で手に入れたものとしてそれは充分だったのか、本人はカストラートとしての生き方を納得できていたのか、息子をカストラートにすることを決め子供を捨てた母親についてドメニコは何を思ったのか―――――もちろんドメニコ・ファーゴの苦悩と恨みは深く激しいものであったということは、生まれ変わりのドニ鈴木の言動を通して語られていました。


ドニ鈴木は、主人公の恵美子視点で見ると、なかなか意図が読めず得体が知れなくて不気味な人物に映ります。肉体は成人男性でもメンタルは前世のカストラートのままで、コンプレックスや女性(母親?)への憎悪を心に抱えていて、恵美子に接触してくる時にも少年のように無邪気に装ったり弱弱しく振る舞ったり甘えたり怪しく誘惑したりと悪魔的で怖いんですよね。恵美子は「宇宙人」「脳細胞が混乱した男」「マザコンの化け物」と罵っていますが、まぁそう言いたくなる気持ちはわからないでもない。

「女を抱くことは出来ないの」
「出来ますよ。やってみますか?」
カストラートも女を抱いたの?そんなこと出来たの?」
カストラートももちろん女を抱きました。たくさんの女を抱いた。妊娠の心配がないから、女たちに大モテだった。僕もですよ。恵美子さんを抱いてもいいのかな」

これ恵美子とドニ鈴木の会話なんですが、「出来ますよ。やってみますか?」とは、なんという人を食ったような回答をする男……w こんな風に図々しく迫ってくるくせに、いざ彼女と寝る時は恵美子にドメニコ・ファーゴを捨てた母親を重ね合わせて、いつもの卑屈な態度を豹変させて激しい憎しみをぶつけて罵倒してくるという、怖いにもほどがあるんですよ、この男……!! セックス中、あんな風にされたら普通トラウマになりますって……。

恵美子視点で迎えた結末も、三角関係の着地としてカップルの組み合わせが意外で面白くはあるものの、ドニ鈴木にしてやられた感が強く、エグくて後味が悪いです。個人的に、本書の読後感はあまりよくなかったですね……。

ただし、追いつめられ復讐される側の恵美子視点だったからこそ怖いお話と思いましたが、恵美子を翻弄するドニ鈴木の側から見た物語であったなら、前世の恋人を追い求める健気でロマンチックでハッピーエンドのラブストーリーと捉えることも可能かもしれません。実際、ドニ鈴木はかつての恋人に対しては健気に純愛を抱いているように描かれています。この、登場人物の視点によって物語の印象がガラッと変わる、というのは、本書にモチーフとして出てくる「ルオータ」というターンテーブルと通じるところがあり、面白い点だと思います。


というわけで、ドニ鈴木の不気味さを延々と語ってきましたが、それはまぁ、ぶっちゃけ物語上そういう配役だから問題ないといえば問題ないんですよ。本書の面白さを担っているのはこの人物の強烈さと魔性さと外連味のある吸引力ですし。

以下、辛口意見になりますが、正直な感想を述べておきます。実は、ドニ鈴木以外のキャラクターに対しても、私はあまり好感を抱けなかったんですよね……。この小説に出てくる登場人物は、言動が支離滅裂で他人に優しくない人が多くて、読んでいると不快感を覚えます。

例えば、主人公の恵美子。彼女は、いい年をした大人なのに初対面の相手に酷く自意識過剰で侮辱的な物言いをします。ちょっとげんなりしまして、こういう性格の人好きじゃないなぁ、人としての情緒が酷いんじゃ?という印象を受けてしまいました。思考回路も謎すぎて理解できなかったし。主人公の一人称の小説なのにその主人公に愛着を憶えるのが難しいとなると、ちょっと読んでるのが辛かったりしましたね……。もっと心理描写を丁寧にしてほしかったなぁと思います。

恵美子以外にも、ミチコ・カラファという在伊邦人が重要人物として登場しますが、彼女の言うことも矛盾ばかりで支離滅裂、思考回路が謎すぎました。人間らしさを感じなくて怖かったです。もしかして著者は「ズバズバ尖った物言いをする女性は格好良い」という認識があって、そういう風に恵美子とミチコを作中でも描いているつもりなのかもしれませんが、私には誰に対しても無礼で支離滅裂で侮辱的な態度をとる全く魅力的ではない人にしか見えなかった、という……。

時折メインキャラクター同士が噛み合っていない荒唐無稽な会話をどんどん続ける場面があったり、作家さんの「日本人」と「ナポリ」というイメージの使い方に不快感をおぼえたり、そのあたりもちょっと感覚が合わないなと思いました。


さて、本書を読んだ後に私はドミニク・フェルナンデスの小説『ポルポリーノ』を読んだのですが、この『ナポリ 魔の風』は『ポルポリーノ』から強く影響されて書かれた小説だということが実によくわかりました。設定の共通点が多いので、もしかして髙樹のぶ子さんは『ポルポリーノ』に登場した悲劇的な死を迎えるストラートの少年を救済したくて本書を書いたのではないでしょうか。