sorachinoのブログ

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吟鳥子 『一人の王にさしあげる玩具』

一人の王にさしあげる玩具 (ウィングス・コミックス)

一人の王にさしあげる玩具 (ウィングス・コミックス)

  • 主人公:ウルスク

この短編集に収録されているのは、『一人の王にさしあげる玩具』『ある幸福な人の噺』『さまよえる王の噺』『修道士イーディルカンと2人の傭兵』『玩具の頃』の5作品です。どれもファンタジー風味なお話でした。

吟鳥子さんの本を読んだのはこれで二冊目。以前買った『架カル空ノ音1』が良かったので購入してみました。面白かったー!


孤独な魂の幸福な出会い

収録されていた五話の中で一番好きだったのは表題作の『一人の王にさしあげる玩具』でした。砂漠とラクダの国を舞台に、ウルスクとカサフ王子という男性2人の身分を越えた長年に渡る友情を描いた短編です。

次点は『ある幸福な人の噺』。こちらはローマ帝国が現代にもあったら?という発想の世界観という感じで、着々と領土を広め文化の爛熟と繁栄を迎えているローマを舞台に、奴隷として売られてきたケルト出身の少年ガレと、彼を買ったローマの芸術家のお話でした。

本書は男性同士の絆を描いてはいても、恋愛を描くBLではなく、友愛、主従愛、師弟愛、同居人愛を描いています。

ただし、やおい的な萌えを見出せる余地や包容力を持った作風だと見受けられたので、やおいの視点をお持ちの方ならそういった意味でもこれらの作品を楽しめるかもしれません。

お気に入りの2作品に共通しているのは、孤独な魂が幸福な出会いによって救済される、という展開です。例えば『一人の王にさしあげる玩具』に登場する幽閉されているさびしがり屋のカサフ王子は信頼できる友ウルスクの存在に、『ある幸福な人の噺』の芸術家(通称『先生』)は奴隷のガレの存在に救われています*1

『一人の王にさしあげる玩具』のカサフ王子は、不器用で口ではツンツンしつつもウルスクの芸を頬を赤らめて期待しているのがバレバレなんですよね。これがいわゆるツンデレってやつか!可愛いぞ!

自分にウルスクがいるように、息子の傍らにウルスクの息子があってほしいと願うのは、やはりなによりもウルスクの存在がカサフ王の幸福の証だったということを示していて、読んでいるとほっこりするよー。こういうお互いの子供を用いて二人の友情という絆を表出させるという表現は、子持ちキャラクター同士だからこそ出来る表現だよなぁ。この人はラストシーンの台詞も良い。
 

愛すべき男、ウルスク

『一人の王にさしあげる玩具』のウルスクは一見何も考えていないようなお気楽男ですが、カサフ王子がどれだけ自分のことを気に入っているか判っていて、ついでにちゃっかり妻も手に入れていて、友情と主従愛も、恋愛と家族愛も両方追求しているあたり、彼のポジティブさとバイタリティが覗える。

あれだけストレートに相手にあなたを気に入っていると言える天衣無縫さはたいしたものだと思います。彼の肩の力が抜けるような正確に起因するギャグも笑えるし、本当にウルスクは愛すべき個性だな。惜しみなく愛を与える人という印象。

『ある幸福な人の噺』の表紙のガレは表情がとても柔らかくて幸せそうです。大人になったガレがとても良い感じなので、もっと先生と大人ガレの話も見てみたかったと思いました。年を経たとしても彼らの絆が恋愛感情やセクシュアルな関係へと変化しているようには私はあまり思えなかったのですが、家族愛にしろ師弟愛にしろ主従愛にしろ友愛にしろ同居人愛にしろ、或いはそれらどれにも当てはまらない愛にしろ、いずれにせよ2人はとても愛に溢れた生活を送ってそう…!


『ある幸福な人の噺』は結構ゾクリとくるが、それが良い

本書に収録された作品はどれも全体的にほのぼのとした雰囲気が漂っているんですが、『ある幸福な人の噺』にはところどころゾクリと来る感覚を読者に抱かせる仕掛けが散りばめられているのが印象深かったです。

例えば、ガレにそっくりの精巧な人形を先生が内緒で作っていて、突然それをガレに披露する*2というシーンがあります。ガレとしては薄気味悪いというか怖いだろうなー。映画『オペラ座の怪人』でクリスティーヌがファントムの作った自分そっくりの人形を見せられて失神する場面を思い出しました。読んでいて私も少しぎょっとしましたよ。だって、自分そっくりのリアルな人形をプレゼントされるのって、自分のコントロールの及ばない場所で相手に自己の表象を所有されて行使されてしまうことでしょ? 相手の気持ちは大いに伝わってくるけれども、贈られた側としては、ちょっと空恐ろしい気分になるでしょうよ。

もう一つゾクリときたのは以下のシーン。人身売買が日常的に行われ、奴隷を召し使う市民達が描かれているローマでは、先生も食料の買い物のついでに気安くガレを奴隷として購入しています。

(ガレ)「あの もしかしてあなたは奴隷を買いとって自由にするという……人権運動とかいうひとたちの……!」
(先生)「え? ……いや そんなりっぱな人間じゃあなくて……ぼくは単純に……奴隷というものがほしかったんだ。そんな不安そうな顔しなくてもいいよ。ぼくはいっしょに暮らす相手がほしかっただけで。ぼくたち楽しくやっていこうねぇ」

ローマ市民である先生は、奴隷解放の運動の存在を知っていながら、少なくとも表面上は凄いナチュラルに奴隷を購入し所有してるんです*3。一見奴隷の人権って何ですかー?みたいな行動なわけです。いくら「楽しくやっていこうねぇ」などとにこやかに言っても、そこには所有し支配する者と所有され支配される者の権力差が間違いなくあるというのに。

これ、結構ゾクッときませんか?先生が優しい物腰なのが一層不気味。いっそ横暴な支配者の方が分かりやすいよね。自分の生殺与奪の全権を握っている明らかに優位な他人から「ぼくはいっしょに暮らす相手がほしかっただけ」とか言われてもねぇ…。というわけで、先生はちょっと狂気っぽいところもあるんだよなー。そこがまた面白いんですけど。

これら二つのシーンにガレの視点で読んでいた私が先生の薄気味悪さを感じ取ったのは、先生がガレを所有する様子を描いているからなのでしょう。

でも、先生は自身が権力を振りかざしガレを所有しても、自身の望むものは手に入れられないと自覚している悲しい人なんですよね。彼は誰かに愛されることを望んでいるわけですが、愛する対象を所有しないと安心して愛情を注げない自身の弱さにも、奴隷の感情まで思い通りにできないと知りながら愛してほしいがために奴隷を購入し所有せずにはいられない自身の弱さにも絶望を抱えている。 
 そんな先生を、少し不気味で、少し物悲しくて、優しい人物として描いていたのが印象的でした。


御伽噺らしさの心地良さ

本書の短編五作品は全体的にどこか優しい御伽噺めいた雰囲気があります。それが読んでいてとても心地良かったです。作家さんのあとがきに「世界名作文学全集みたいな」ものを目指したと書いてありましたが、タイトルのつけ方なども確かにそんな感じ。全体的にどこかほのぼのとした空気が漂っている作風は、この作家さんの愛らしい絵に合っています。だからこそ逆にシリアスな展開だとか、ゾクリと来るような仕掛けが映えるんだろうと思います。



その他

  • ウルスクがカサフ王子に肩入れすることになった切欠や2人の出会いも知りたかったなと思っていたら、番外編の『玩具の頃』にそれらしき初めて顔を合わせたと思われる場面がちらっと出ていました。ただし、情報が少なすぎてどういう状況なのかいまいち詳しいことがわからない。やっぱりウルスクはいきなり王子の塔に忍び込んだってことなのかな?
  • ‘愛すること’と‘所有すること’といえば『ある幸福な人の噺』にはもう一人興味深いキャラクターが登場します。その人は、服従する「人形では意味が無い」と言う先生とは違い、無機物の人形を無機物の人形と知りつつ、相思相愛の伴侶として暮らしている人。自分が人形を愛玩するだけではなく、無機物の人形も自分を愛していると言い切る彼は、人形に持ち主だけを愛する絶対の無限の愛情を感じている。人間同士で愛情を交換していないけれど、彼もまた‘ある幸福な人’でもあるんだろうなぁ。

まとめ

優しい御伽噺を聞いた後のような、柔らかい読後感のある作品ばかりでした。癒し系漫画というべきか。

*1:もちろん異国に売りに出されて精神的に参っていたガレも先生に救われていると思うけど。

*2:余談になりますが、数年前何かのテレビ番組で、日本人の男性彫刻家が、自分の等身大の銅像を作りそこに切り取った自分の頭髪や陰毛を練りこんで、外国人女性の恋人に贈った話という話を見たというのも思い出しました。た、確かに愛情表現なのはわかるけど陰毛って…!これはこれで凄い話だ。

*3:実際は先生は先生なりのアプローチで奴隷を哀れんでいますが