sorachinoのブログ

BLやラノベ、少女漫画、ロマンス小説、ミステリ小説、アニメ、ドラマ等のジャンルごった煮読書感想ブログ。お気に入り作品には★タグをつけています。ネタバレ多数、ご注意ください。コメント大歓迎です。不定期更新。

アニメ 『昭和元禄落語心中』 第5~8話

アニメ『昭和元禄落語心中』の第5~8話の感想です。いずれ原作漫画の感想記事も別途あげたいと思いますので、ストーリーについてはそちらで触れることとして、この記事では前回に引き続きアニメオリジナル部分についてを中心に書いていきます。

第5話

鹿芝居で弁天小僧を演じ、菊さんが手ごたえを掴む回。菊さん役の石田彰さんの女声が凄い。本当に歌舞伎を彷彿とさせる発声で、芸達者な声優さんだなぁとしみじみ思いました。

最後、何枚も写真が撮られていくたびに菊さんたちが穏やかな様子に収まっていく演出がとても微笑ましくて良かったです。

第6話

何のために落語をするのか、菊さんが自分の芸を見つける回。アニメオリジナル展開多め。

モブの小ネタですが、4話で初登場していた菊さんのバイト先のカフェの常連客の3人組が再登場していたのが面白かったです。彼女たち、すっかり噺家としての菊さんのファンにもなっていましたね。

紫陽花の作画が瑞々しくて美しいです。

第7話

今回も前回に引き続きアニメオリジナル展開がかなり多い回。みよ吉と菊比古の関係性、さらに助六と菊比古の関係性を来たる悲劇に備えて深堀りしていくという制作側の意図を感じます。

つい菊さんと助六の関係に注目しがちですが、みよ吉という女性の悲哀がアニメだとより際立っているなぁと思います。熱中できる仕事もなく、学歴もなく、守ってくれる親もおらず、満州でも男性に騙され捨てられ色も売り、男性に縋って生きることを繰り返すみよ吉。本人の資質もあるかもしれませんが、彼女の弱さと哀しさは時代のせいも大きいですよね。原作既読なもので、その最期を知っているだけに6~7話にかけてはみよ吉まわりの細かい描写に痛ましさを覚えました。

でも、この8話を見た後にみよ吉を演じる声優・林原めぐみさんが語るこの動画を聞いてちょっと救われた気分になりましたよ。

2016年2月21日 志の輔ラジオ 落語DEデート ゲスト アニメ「昭和元禄落語心中」に「みよ吉」役で出演中の声優・林原めぐみさん
みよ吉が落語嫌いのキャラクターであることから、林原さん自身もアフレコを終えるまで落語は見なかったんだそうで。みよ吉という哀しい女性を、こんなにも丁寧に大事に演じてくれて嬉しいです。

さて、アニメの助六については、原作比三割り増しくらいでダメ人間ぶりが強調されている気がします。助六よ、たかり過ぎだし飲み過ぎだぞ~。ヒモ男にもほどがある。あ、でも「二人であっちこっち好きな所巡って、面白ぇもん見て、んでもって沢山客を笑わせてやろうぜ」といつか二人会をやろうと助六が菊を誘う台詞は、助六らしく夢のある話題で良かったです。鹿芝居の興行を成功させた実績があるのですから、企画力とか人脈とかスポンサー集めの才覚とか、助六には結構あると思うんですよ。真打になった二人の地方巡業シーンは観たかったなぁ。そんな未来を二人が辿れなかったのは残念極まりない……!

うーん、でも正直なところ6~7話あたりは話が動かないのでちょっと中弛みを感じたかな。

第8話

みよ吉に別れを告げ、助六とも同居を解消する菊さんの回。いよいよ話が動き出し、面白くなってきます。しかもこの回は、菊比古と助六が互いの落語観を真面目に語り合うシーンもあり、音楽や作画も素敵で全体的にクオリティの高い回だったと思います。私は全話見た中で、1話と11話と12話、そしてこの8話が特に好きなんですよ。

祭りの夜の鬼灯市の雰囲気が情緒たっぷりで本当に素晴らしかったです。風に揺れる風鈴と鬼灯のカット、短いながら美しすぎて目が惹き付けられました。美術斑、良い仕事をしてくれてありがとう、と言いたいです。

原作読んだ時も驚きましたしアニメを見て改めて感じたけれど、交際女性が他の男性に抱きしめられている場面に出くわすという修羅場の後で、男性二人が仲良くジャズ喫茶で語り合うってなんか色んな意味でスゴイ展開ですよね。こういう男女のメロドラマの際に定石を外したキャラの動かし方をしてくるのは原作者がBL作家だからこそなのでしょうか。菊と助六ホモセクシュアルに極めて近いホモソーシャルな関係にBL愛読者としては激萌えなのですが、しかしその一方で、みよ吉の排除されっぷりが悲しくて。菊比古さん、酷薄ですわ……。

ジャズ喫茶で落語の未来を語り合うシーンで、バックミュージックのジャズがお洒落でした。ここ、原作でも音楽が流れている場面なんですが、漫画で読んでいるときはあんまり意識していませんでした。アニメで実際に音としてジャズが流れるのを聞くと、客に合せて自分が変わっていきたい、今の客に受ける噺をしたい、という落語界の変革者たらんとする助六の言葉がジャズ音楽の即興性とも重なりとても説得力を持って聞こえます。

「落語だけが娯楽じゃねえんだよ。世の中に溢れけえっている娯楽の中で、落語がちゃぁんと生き残る道を作ってやりてぇんだよ」

という台詞も重々しくて、いつにない助六の真摯さが素敵でした。この回は、本当にアニメで観れて良かったです!



アニメ 『昭和元禄落語心中』 第1~4話

年明け以降、深夜アニメにハマってすっかりブログの更新が途絶えてしまっておりました。ぼちぼち再開したいと思います。

ちなみに、ハマっていた深夜アニメというのは『僕だけがいない街』と『昭和元禄落語心中』です。どちらも大変面白くて、放映中の3ヶ月間は非常に楽しませてもらいました。ちょっと寝不足にもなりました(笑)。

小中学生の頃はアニメ大好き人間だったのですが、大人になってからこんなにアニメにハマるのは初めてです。今はTwitter2CHなどでの実況、国内外の視聴者によるアニメ視聴のリアクション動画、レビューブログなど、他の人の反応も知る手段がたくさんあって、自分がアニメを観て楽しむ以外にも楽しみ方が多くて良いですね。

それにしても、雲田はるこさんの漫画を原作とする『昭和元禄落語心中』の地上波でのアニメ化は、1巻発売当初から漫画を買い続けてきて全巻揃えている原作ファンとしては本当に嬉しかったし、感慨深いです。

第一話から最終話までアニメは全話観ましたので、以下に各話の感想を書いていきたいと思います。長くなってしまったので、今回は第4話まで。


第1話

与太郎の八雲師匠への弟子入り回。

アニメの中で落語をやるシーンが予想以上にしっかりあったのが嬉しい驚きでした。やっぱり落語は「声」がつくと俄然生きるなぁと与太郎が花色木綿をやる場面を観ながらしみじみ実感。正直なところ原作漫画だと落語の台詞は流し読みしてしまうこともあったのですが、耳から入ってくる情報というものはなかなかに大きくて、今回のアニメ化で落語の話の中身が頭の中に断然入ってくるようになり、作中で語られる落語自体の面白さも味わうことができるようになりました。花色木綿、古いお話ながらも良くできたコメディですね。演じた与太郎役の声優さんもお見事。

あと、作中の季節感もアニメ化によってより一層鮮やかに感じられるようになった部分だと思います。冒頭の出所する与太郎の頭上に舞い散る桜、八雲師匠が破門を言い渡すシーンの激しい吹雪など。やっぱりカラーとアニメーションの動きの効果は大きいですよね。

第1話は1時間ということで、普通の30分の放送枠の2倍になっているのですが、それでも原作の様々なシーンが端折られているのは原作ファンとしては悔しいと思いましたね。萬月兄さんとか出てほしかった。

YOUTUBEで公開されていた

月刊 熱量と文字数 2016/1/21 テーマ:『昭和元禄落語心中』
という動画を見ていたら、落語家さんと司会役の方が第1話の与太郎が八雲師匠の口座の最中にいびきをかいて寝てしまうシーンに言及していました。「これは現実である話だな」とか、「もうね、翌日の楽屋が騒然。落語家があれ胃が痛い痛いって」とか言っていて笑えます。

第2話

八雲師匠の幼少時からの過去編スタート回。

7代目八雲師匠の声が深くて温かみのある美声で素敵。家中宏さんという声優さんだとか。声優に関しては林原めぐみさんくらいしか知らない程度に無知な人間ですが、このアニメの声優さんのレベルが全体的に高いというのは素人ながらわかる気がします。実際ベテラン勢がキャスティングされているそうですね。

2話後半には菊比古(後の八代目八雲)と初太郎(後の助六)の初高座の様子が描かれており、これは原作にはないアニメオリジナル展開です。菊比古の拙い芸に冷え切った寄席の様子がよく伝わってきて、しかもそのシーンが結構長くて(個人的には、もうちょっと短くても良かった)、観てるこっちがいたたまれない気分に。初太郎が「やっと笑ったな。言ったろ?まず、笑わにゃって」と言うラストは、初太郎の格好良さを印象付ける良いシーンですね。

時そば」というタイトルは聞いたことがあったけれど、噺の内容はこのアニメで初めて知りました。面白いですね。ループオチも笑えます。

第3話

 菊比古(八代目八雲)の青年期に戦争が影を落とす回。話の筋はほぼ原作通り。

気が滅入ることがあると、いつの間にか口の中で落語を唱えておりました。

と閉め切った障子を背景に正座する菊さんの姿が美しくて私は満足です。

第4話

菊比古がみよ吉と出会う回。

菊比古がアルバイトをしている店がある銀座から寄席がある上野まで菊比古と助六が軽口を叩きながら歩いていくシーンがあるのですが、ここ凄く良かったです。原作でも好きな場面ですが、アニメは道中の風景をしっかり描いてくれているのでとても臨場感があります。夜なので抑えた色調で彩られた戦後の昭和の風情ある景色が良いんですよ。当時の都内を体験しているわけでもないのにノスタルジーを感じてしまいます。こういうディテールが描き込まれるのはアニメ化の嬉しい点ですね。

ディテールと言えば、菊比古の借家の火鉢に置かれている鉄瓶は、作画が精緻で油絵のような荘重な雰囲気を醸し出していて美しかったです。こういう、妙に金属類の小道具の背景美術に凝っている様子が多々見受けられるのが、このアニメの面白いところです。



第5話以降については、また後日。

ジュシュ・ラニョン 『欠けた景色 In Plain Sight 』

欠けた景色 In Plain Sight (モノクローム・ロマンス文庫)

M/Mの短編小説です。

舞台はアメリカ、アイダホ州のベアレイク郡。主人公であるFBI特別捜査官のナッシュ・ウェストは、研修講師としてベアレイクに短期滞在することになります。その間、地元のモントピリア警察署の警部グレン・ハーロウと深い仲になるものの、研修期間が終わり飛行機でクワンティコへ帰ることに。ところが、突然グレンが行方不明になったため、ナッシュはクワンティコから急遽ベアレイクに戻りグレンを探そうとしますが……、というお話でした。

FBI捜査官と地元警察署の警部という双方捜査機関所属のカップルでした。どちらもタフでプロフェッショナルな大人の男です。

それにしても日本で翻訳書が出ているMM小説って、カップルの一方が警察官というパターンが本当に多いですね。まぁ、ラニョンさんのようにゲイミステリを書こうとすると必然的に捜査関係者をメインキャラクターに据えたくなるものなのでしょうが、この作品はそれだけではなく、田舎の警官のゲイの孤独や生き辛さにも焦点を当てています。
マッチョで男臭い警察組織、しかも閉鎖的な田舎町、ときたらそりゃ苦労するでしょうね。

グレンは作中ほとんど行方不明で登場シーンはそれほど多くありませんが、ナッシュと読者はグレンの生き様を捜査の過程で感じ取っていくことになります。グレン本人の口から語られることはない、それでもまざまざと浮き上がる地方に住むマイノリティの孤独感が印象的でした。

それだけに、その後の彼らが気になります。どちらかがキャリアを中断してでも一緒にいることを仄めかせて話は終わっているんですが、もうちょっとその先を読んでみたくなるんですよ。この作家さんの小説の最後の一文はいつも非常に練られており、「その先を!読みたいんだ!」と読者をもどかしくさせるんですよね。上手いよなぁ。

木下けい子『いつも王子様が』

いつも王子様が (H&C Comics)

原作:月村奎


地味でオタクな受けが、意地悪なイケメン攻めに振り回されるコメディテイストなお話でした。

中学時代に部活の先輩に憧れていた主人公は告白をしますが、返事を聞かずにその場から逃げ出してしまいます。それっきりになっていた二人が、10年後にひょんなことから再会。先輩(攻め)は清掃会社の従業員になっており、後輩のエロ漫画家(受け)が依頼したハウスクリーニングサービスのスタッフとして受けの家にやってくるのです。

いっそ全くの赤の他人なら気にしないけれど、中途半端な知り合いに家の中を掃除してもらうのってプライベートが丸見えでかなり気まずいですよね。受けの驚愕と居たたまれなさはいかばかりだったでしょうか…(笑) 一方、攻めは何食わぬ顔でお掃除しながら受けの私物から生活ぶりを色々観察していたんだろうな~。部屋の隅から隅まで、そりゃもう詳細に。


ところで、アメリカには「ジョック」と「ナード」というスクールカーストがあるそうで、よく映画やドラマでネタにされていますね。ジョックは、マッチョなスポーツマンタイプの人気者で学内ヒエラルキーの頂点に立つ存在。ナードはその対極に位置し学内の主流派にはなれないオタク系やスポーツが苦手な人たちを指すんだとか。

『いつも王子様が』を読んでいて思ったのが、ジョックとナードが恋愛するとこんな感じになりそうだなぁ、ということ。この二人って性格は正反対だし、興味や趣味の方向性もかなり違う気がするんですが(共通点はテニスくらい?)、よくカップルにまとまったなぁ。自分にないものを持つ人を求めてしまうって感じなんでしょうか。でも、意地悪な攻めとドMな受けですからそういう意味では相性が良いのかもしれませんね。実際、攻めも

「俺たち割れ鍋に綴じ蓋のいいカップルだと思うよ」

と言っていますし。


ストーリーは攻めの言動のせいで誤解が積み重なっていく一方で体の関係は始まり受けは苦悩して……というもの。「誤解」は、先輩が自分に構うのは金目当てなのではないか?という受けの懸念のことを指します。もちろんお金が目当てなのではなくて、ただ単に会う機会を増やしたかったからという可愛らしい動機が真相だったのですが、結果的に攻めが受けの気持ちに付け込んでたかっている形になってしまったのは確かなんですよねぇ。ああいうアプローチの仕方は、相手を傷つけるものだと思いますよ、先輩。

一方で、受けも不用意に攻めの仕事である清掃業に対して失礼な言及をしてしまう場面がありました(受け自身も自分の職業に引け目を感じているからこそポロッと出てしまった言葉だったのでしょうが)。確かに受けのあの言い方は、清掃業の人から見ればカチンと来るでしょう。根に持った攻めがいちいち嫌味を受けに言う場面があり、ちょっと笑いました。

なんだかこの本って、ポップで可愛らしい表紙イラストだとか「王子様」という単語の入っているタイトルの割には、妙に金銭的な面や職業の社会的ステータスなどの際どいネタも結構描かれているのが印象的です。


ところで、受けのご近所さんでデリカデッセンを営む堀という男性が登場するんですが、この堀さん、優しくて温厚なキャラクターで癒されました。綺麗なお兄さんという感じ。この人を主人公にした月村奎さんの小説『眠り王子にキスを』も読んでみたくなりました。


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えすとえむ 『ゴロンドリーナ』 1~5

Golondrina-ゴロンドリーナ 1 (IKKI COMIX)

Golondrina-ゴロンドリーナ 1 (IKKI COMIX)

Golondrina-ゴロンドリーナ 3 (IKKI COMIX)

Golondrina-ゴロンドリーナ 3 (IKKI COMIX)


 レズビアンのスペイン人の少女が、闘牛士になろうとする青年漫画。面白かったです。実は、1巻を読んだだけではそこまで強く感銘を受けたわけではないのですが、巻を重ねるごとにだんだん面白くなってきました。

同性の恋人・マリアから裏切られて自ら死を選ぼうとしていた少女・チカ。しかし、彼女を轢きかけた男・アントニオによって保護された。翌朝、チカがアントニオに保護した理由を尋ねると「男だったら、闘牛士にでもするつもりだった」と冗談とも本気ともつかない返答が。しかし、チカはその言葉を真に受けて「闘牛士になる。そしてマリアの目前で死ぬ」と宣言。己の言葉通り、数少ない女性闘牛士になるべく苦難の道を歩み始めたチカだが…? 

闘牛文化に注目した漫画

 本場の魚介たっぷりなパエリアを食べたいし、ガスパチョを味わいたいし、光の画家とよばれたホアキンソローリャの美術館にも行きたい。

という訳で、スペインには以前より行ってみたいと思っていたんですが、この漫画を読むまで闘牛には特に思い入れはありませんでした。そもそも闘牛という興業がどのように行われているのかよくわかっていませんでしたしね。赤い布を牛の目の前でひらひらさせて煽って、突進してきた牛を華麗にかわす、その程度の貧弱なイメージしか持っていませんでした。

 ところが、そんな闘牛素人をして一気に5巻の闘牛士漫画を読ませる魅力があるのですから、『ゴロンドリーナ』は凄い作品です。


 序盤は、主人公のチカ自身も闘牛には疎く(私と同レベルです)、アントニオというマネージャーに導かれて闘牛の世界に入っていきます。彼女が新たな知識を得ていく中で、読者も一緒に闘牛の舞台裏の様子を垣間見れます。

 私はこの漫画を読んで初めて、思っていた以上に闘牛とは様式美を重視するものなのだと知りました。
 最初はピンクの布を振って牛の走り方のくせ等を観察、次に馬に乗ったピカドールが槍で突き、さらにバンデリジェーロが銛を打ち、最後に赤い布で牛を操るマタドールが剣で刺す、と牛を殺す流れが確立しているのです。

 ちなみに、ゴロンドリーナの特設サイトに綺麗な写真付きで詳しく解説されていますので、興味のある方はリンク先をご覧ください。闘牛といえば「赤い布で牛をかわす場面」が有名ですが、それはクライマックスであって、そこに至るまでには段階を踏んでいるんですね。闘牛士にもピカドールやバンデリジェーロ等いろいろな種類があり、分担しつつ牛と戦っているというのも興味深かったです。

 こういう風に、漫画を通して新しい世界の知識を得られるというのは楽しいですよね。


5巻で登場するジョラ

 この漫画を読んでいて、自分の目で闘牛を見てみたくなった人は多いんじゃないでしょうか。

 でも、どうだろうな、実際に生で見たら私はショックを受けてしまうかもしれません。銛を打ち込まれて、血を流しながら赤い布に翻弄される牛だなんて、やはり残酷なショーだと思うんですよ。それがスペインの伝統である、というのは承知していますが……。

 だからこそ5巻でジョラというキャラクターが重要人物として出てきたときはワクワクしました。歌手であり、闘牛反対デモの主催者であり、チカと肉体関係を結ぶことになるレズビアンバイセクシュアル?)のジョラ。動物愛護の精神と相いれない闘牛の側面を照らし出す存在です。

 それまでチカの周囲にいたのは闘牛業界にどっぷり浸かり興業を推進するキャラクター達が多かったのですが、廃れ行く現状がある以上、闘牛を批判し停止を目指すジョラのようなキャラクターは物語上必要不可欠でしょう。師匠アントニオや庇護者セチュ、ライバルのヴィセンテなど魅力的な脇役が多い作品ですが、私はこの強い信念を持つ女性ジョラが一番好きです。

 ジョラに自分の職業については明かさないまま、密会を重ねていくチカは、闘牛士としての在り様に
揺れます。混迷するチカの様子を読んでいて、どういう決断を作者はチカにさせるのかとても気になって、ぐいぐい続きを読み進めました。自分の仕事が不道徳だ!社会的意義がない!と批判されるのは、やっぱり辛いと思うんですよ。

 やがて闘牛反対集会で自分が闘牛士であることを明かし、「それなら、私は正しくなんてなくていい」と叫んだチカ。道徳や是非を超えて、自分はそれをするのだ、と宣言します。

 正直、この結論は闘牛批判に真っ向から反論するものではないですし、物足りなさを感じなくもないな……。ジョラというキャラクターを出したことで闘牛批判に踏み込むという作者の勇敢さを感じさせた作品でしたから、もっと説得力のある闘牛擁護の意見を打ち出すのかなと思っていたんですけどね。

 まぁ、つまらないことを言うと、主人公が闘牛反対派の言を受け入れて「そうですね、闘牛は残酷だから闘牛士は辞めますね」と言ってしまっては話が終わっちゃうから、こういう風に描くしかないのかもしれませんが。

 いや、そもそも恋人へにあてつけで死ぬために闘牛士になったチカは、自分の為に闘牛を行うのだ、としか言えないのも道理なのでしょうし、正直な本音でもあるのでしょう。彼女は決して伝統を守りたいからとか、誰かの為に闘牛をしているわけではありませんから。ただ、フラメンコが人を魅了するのと同じように闘牛もまた人の心を掴むものだということの実感をチカは持っているはず。

 実際、多くの批判に晒され衰退期に入ったとはいえ、それでもなお闘牛を催そうとする動きがあるのは、ただそれが人を惹き付けるからという単純で強固な理由ゆえなのでしょう。


余談

ネットサーフィンをしていたら、興味深い文章に出会いました。『「イベロ・マンガ」 スペインでの主流からニッチとしての女性マンガとガフオタクまで』という論文なんですが、京都精華大学国際マンガ研究センターの公式サイトにて公表されていますので、興味のある方はご覧ください。原文はホゼ=アンドレス・サンティアゴ・イグレズィアス氏、日本語訳は雑賀忠宏氏です。

この論文の第4章に、『4. マンガの文化的雑種性——「ゴロンドリーナ」の事』として本作のことが一章丸ごと使って言及されているんですよ。スペインでは女性読者からも男性読者からも本作は好評を得ていると書かれていて嬉しくなってしまいました。

スペイン人の立場からの漫画評ということで非常に面白く読んだんですが、中でも特に私が興味深いなと思ったのは、スペイン人読者がこの漫画にエキゾチックさを感じている、という記述です。

物語の舞台はスペインである—それが我々の知っている日常的なスペインではなく、日本のマンガ家の視点からポストモダン的なやりかたで想像された、ロマンティックなスペインだとしても、だ。読者たちの多くは、この作品をリアルなスペインからは遠く離れたものとして受け取っている。「チカ」を焦点としたストーリーは、スペイン的な背景をぼやけさせ、束の間、物事が我々自身の国で起こっていることなのだということを忘れさせる。

 闘牛というモチーフや欧州風の街並みを描いた背景、チョリソやハモンなどのスペイン料理の登場など、この漫画の濃厚なスペイン色は、当のスペイン人からすると「ロマンティックなスペイン」に感じるんですね~。面白い。

 映画『ラストサムライ』を観た時、間違いなく日本を舞台にしている作品でありながら日本の感覚とは違うところから日本を描いていて、私も不思議なこそばゆさと違和感を覚えたのですが、あんな感じなのかな。

「ゴロンドリーナ」のなかに登場するキャラクターたちは日本の社会的習俗にそのまましたがっているようであり、スペイン人がするようにはまったくふるまわない。チカの行動もそのほかのマンガの女性主人公に近いものであり、それゆえスペインの読者は彼女をスペイン人の少女というよりも日本人の少女として考える。

 本場のスペイン人から見ると、チカの言動もまたスペイン人らしくないようです。これ、凄く面白いなぁと思います、いえ別に作品を論いたい訳ではなくて、本当に面白いと思うのです。

 以前、オノ・ナツメの『リストランテ・パラディーゾ』のアニメを見たイタリア人が、主人公ニコレッタの言動はイタリア人らしさよりも日本人らしさを感じる、とコメントを寄せていたことを思い出しました。よく欧米に留学した日本人が挨拶のキスをするタイミングや相手を判断するのに慣れなくて苦労すると聞きますが、やっぱり行動様式ってなかなか異国人が再現するのは難しいんでしょうね。

ストーリーは闘牛文化や、あるいはそれに対する左翼やエコロジストの立場などからの反対をほとんど知らないスペイン国内の読者にとって、じゅうぶんエキゾチックである。さらに、第1巻の第3話で次のように闘牛に対する自分の見方を語るセチュは、平均的なマンガ読者やスペインの若者にとってはもっとも近しい登場人物である——「マッチョなナルシスト達が、時代錯誤の衣装着て、牛刺し殺すのの何がいいの?」(第 1巻第3話、81頁)。彼を通じて馴染みのない闘牛の世界へと入っていくスペインの読者たちにとって、セチュは焦点の役割を果たしている。

 てっきりスペイン人にとって闘牛は身近なものなのかと思っていたんですが、この文章によると現在ではそういう訳でもないのですね。

 日本人にとっての相撲みたいなものなんでしょうか。自分たちの伝統であると認識はしているし、おおよそどういうものかは知っているけれど、実際に相撲を目の前で見に行った経験のある人は案外少ない、みたいな。

 ちなみに論文では、『ゴロンドリーナ』の闘牛文化への詳細な描き込みに対して「精確な描写」と評価しています。えすとえむさんのスペイン愛がきちんとあちらの人にも伝わっているようで嬉しいなぁ。

チカとマリアの関係が保守的な「攻め/受け」という、異性愛のような規範を思わせるものであるとしても、マッチョな世界のなかで戦うことを選んだ女性というアイデアはスペインの読者たちに、女性にも男性にも同じように、真に訴えかけるものがあったのだ。

 疑いようもなくスペインが舞台でありながら外国人の目を通して描かれたエキゾチックでロマンティックなスペイン描写であること、登場人物の社会的習俗や行動様式が日本性を感じさせる妙味と不思議な感覚、しかし同時にジェンダーや成長といった無国籍性や普遍性のあるテーマも描かれていることで共感もできること。そういった面がスペイン人読者にウケているようです。

 ところで、スペイン語版はスキャンレーションとのことで残念なんですが(少なくともこの論文が書かれた時点では)、正式な流通経路でスペインに輸出することはできれば良いのにと思います。


まとめ

 本作以外にも、えすとえむさんは闘牛士のキャラクターが出てきたり、スペインを舞台にした漫画を描いています。チカとアントニオの師弟関係が同作者のBL漫画『ラスゲアード』のヘススとアルバロの関係を彷彿とさせるように、この『ゴロンドリーナ』には、そういった過去の作品の様々な要素があちらこちらに出てきている気がします。

 スペイン、闘牛、フラメンコ、エラ・クラシコ…など、好きなものを描くぞ!という作家さんの気合が伝わってくるかのような作品です。現在5巻まで出ていますが、早く続きが読みたくなりました。




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